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邂逅【3分小説】

 泉が最後のひとマスに白い駒を置くと、次々と黒い駒が白く翻った。
「おォ、これはマズイ。マズイぞォ」
 向かいの松田が愉快そうに唸る。
 盤に敷きつめられた白黒の駒をそれぞれ集めて、一枚一枚数えていく。先に数えきった泉が声をあげた。
「三十二。惜しいッ」
「うん、こっちも三十二。おお、あぶねェ」
「引き分けか。これで——五引き分けと……ゴホッ、ゴホッゴホッ」
 泉は咳こみながらメモ紙に書き入れると〝正〟の字が完成した。メモにはそれぞれの名前の下に勝った分だけ〝正〟の字が並んでいる。
 二人は数え収めた駒から二枚ずつ取り出し、再び対局を始めた。
 大きく嵌めこまれた窓から強い光が射しこみ、レースのカーテンがそれを和らげている。閉め切った窓の外からわずかに蝉の鳴く声が届いた。
「お、セミが鳴いてるよ」
 泉が気づき、窓に顔を向ける。
 松田も誘われるように、窓に目を移した。
「ホントだ——いよいよ、夏か」
「たまんないなァ、暑いのは。くたびれちまうよ」
「なに言ってんだ。ずっと冷房の効いた部屋に閉じこもってて、暑いもなにもないだろう」
「たしかに。……あそこは夏でも涼しかったな」
「あそこ?」
「オレたちがいた部屋。夜なんか窓だけ開けてりゃ、それで充分だった。エアコン入れてなかったろ?」
「ああ、そうかも。あんな狭い部屋に男六人もいたのにな」
「松田が来たのは夏だったか」
「うん。八月の繁忙期に合わせて入ったから」
「それで一気に部屋が狭くなったんだ。それまで三人しかいなかった」
「峯本さんと波戸さん?」
「そう。松田とか来てから急に賑やかになった。それまでは静かなもんだったよ。齢も四、五個くらい離れてたし」
「あの時はみんな二十代だろ? 結構みんなでバカやってたぜェ」
「だからオマエらが来てからなんだって。あの時は楽しかったなァ」
「ああ。朝五時起きでもしこたま酒飲んで、禁煙部屋なのに煙草もバカスカ吸って、毎晩サッカーゲームとオセロ三昧だ」
「オセロのカップ戦とかやったよな? 総当たりで」
「やった。負けたらビールおごんなきゃいけなかったんだ。廊下の自販機の。不思議とみんな実力が拮抗してたよな」
「勝ち続けるとずっと吞んでるから酔っ払ってまともに打てなくなるんだ。それでじゃねぇか?」
「そっか。ウィスキーとかも置いてたな。一気飲みして吐いたりして」
「バカなことやってたなァ」
「まだ二十歳かそこいらだろ、あの頃のオレたちは。若かった」
 言葉を交わしながら、盤の上は着々と白と黒の駒で埋まっていった。フエルト地に駒を打つ優しい音が静かに響く。泉が再び咳きこみ、苦しそうに表情を歪めた。
「大丈夫? 休むか?」
「ああ、この一局でいったん終わりにしよう」
「ムリすんなよ」
「松田は? 腹の痛みの方は?」
「オレは……まぁ、ずっと違和感はあるけどな。痛みはあったりなかったりで」
「そうか。酒の飲みすぎだな」
「泉は煙草の吸いすぎだろ」
「ハハ、お互い様だ。たまたまオレが肺にきて、オマエが肝臓にきただけで」
「たしかにな。まさか、こんなところでまた巡り会うとはね。人生っておもしろいもんだな」
「松田が声かけなかったら気づかなかったぞ、オレは」
「いや外のプレートで自分の部屋を確認するだろ。そしたらオマエの名前が書いてあるじゃねぇか。《泉昌之》って。眠っていた記憶が呼び覚まされるっていうのかな。『あれ? もしかして……』みたいな」
「にしたって、声をかけるその勇気よ。あれから五十年経ってんだぜ。たった一ヶ月だけ一緒に働いて、あとは連絡一つ取ったこともねぇのに。よく覚えてたな」
「でも、泉だってオレが名乗ったらすぐ思い出したろ」
「まァ、そうだけど。意外と覚えてるもんだな」
「あの夏は特別だったよ。契約期間が終わってみんな出てった時は寂しかったぞォ。みんな寝てたベッドが空いて部屋ががらんどうになってよ」
「松田はいつまであそこでやってたの?」
「年越しまでいたな。夏はいいけど、冬はさみぃのなんのって。雪降っちゃって、ロクに外も歩けねぇし。そのあとも何人か部屋に入ってきたけど……まァ、あの夏が最高だったな」
「たしかに。最高だったな——」

 数日後。泉のベッドはもぬけの殻となった。
 享年七十歳。末期の肺がんだった。
 がらんとした向かいのベッドに、松田は懐かしい寂しさを感じていた。人生の内のわずか一ヶ月。寝食を共にし、苦楽を分かち合ったかつてのリゾートバイト仲間は、長い年月を経た邂逅によってかけがえのない友となった。ひと夏の思い出を語り合える唯一無二の友である。そして友はオセロを置き土産に、またもや先に旅立ってしまった。窓際に置かれたままのオセロ盤は、寮の部屋にひとり残された時のことを彷彿とさせた。
 ——オレはいつまでかな。
 松田はのんびりと考えた。
 末期の肝臓がん。
 今度は冥途ですぐ会えるかもしれない。
 蝉の鳴声がひときわ大きく聞こえ、本格的な夏が始まろうとしていた。

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