比較する事は悲しみを招くだけ
こんにちはグランスです。
昨日は、副鼻腔炎がひどくお休みしていました。倦怠感で書くことができませんでした。申し訳ないです。
さて、今日は「比較する」という事。
まず、このお話をする前に人間は必ず良いところと悪いところがある。それは、基本能力ですので仕方がない。また、環境の部分も絡んできて、それについても書いていきますが、全然いいところがありませんという事は、まずもってないんだよという事だけは知っておいてください。
いやーないですよという方は
①いい部分をまだ発掘できていない
②いい部分はあるが、自己肯定感が低く自信が持てていない。
③そのいい部分を発揮する場面に出会えていない。
が考えられます。
それでは本題です。
比較するの具体的パターンはだいたい、以下の通りかと思います。
①他人と比較された(弟の方がいい、〇〇のほうがお前より優れているなど)
②羨ましい(幸せな家庭を見た・SNSでばずった人を見た)
じゃないでしょうか?
私も両方されたことがあります。特に仕事や家庭の事で悩み。こんなに落ちこぼれていたのかと自分を責め、ネットの友達を探しまくり、なんとか自己肯定感を上げたいとそれだけをただそれだけを、願っていた。
だけど、取り合ってくれる人なんていません。だって、その人にうまみがなければ付き合いませんから。人間って意外にもシビアで、利益が無いとわかると友達やめたり付き合いがなくなることもしばしばで、こうして食うか食われるかで生きてる部分も多少はあるのかなと思っています。
でも、他人と比較し落ちこぼれていると焦って動き出すことこそ、地獄に片足突っ込んだのと同じでもあるのです。
もちろん、もがいた結果で浮上できる人もいます。いわゆる昇華して何かの技術・友人との出会い・コミュニティへの参加などを通して回復できる人もいますが、ごく一部でしょう。
最終的に、何をやっても空回り・現状は何も変わらず。そして消えてしまいたいと病むようになる。
私も、自己肯定感が下がりっぱなしなとき、朝みのもんたさんの「朝ズバッ」って番組を見て「今日も一日元気に行きましょう」と言われたを見て泣いたんですね。行けるかって。存在感のあるキラキラした人だから言えるんだろとそこまで卑屈になっていました。
じゃあどう抜け出したのかという話になりますが、それは何のためにしているの?得られる報酬は自分にとってどうなのさ?という部分が大切で
例えば
「勉強をしなさい」という事。学力テストで自分が劣ったという事。
なんでできないんだろうと。
この事例で考えると
・勉強をすることで、働ける職種が増える又は収入が増えて生活が安定する。という事は親はあなたに、安定した生活をしてほしいと願っている。
・学力が劣るという事は、そもそも学ぶことに疑問があるとか、身が入らないという事であれば、自分が向いているものは何かを探す必要がある。
・必ず人より優れているものがあるので、そこから考えてみる。
必要があるのかと思います。
たまたま昨日、小学生の男の子が「フォートナイト」というゲームを極めるために、中学に行かずに生活をするという事を、親と先生と話しあった末に決めたというポストを見た。
これもありだと思いますが、それによる失うリスクを果たして彼はわかっているのか?と下世話ながら思ってしまう。学校は勉強を学ぶ以外の事も得られますからね。
ただ、ゲームをしたいから、勉強をしたくないという短絡的な理由でないことを願うばかりですが、好きなことを極め、職業にしていくというスタイルは私は好きです。好きなら突き詰めて、お金が稼げればそれが一番すごいことだとも思いますしね。
また、昨今SNSの普及により「バズる」とか「注目される」事が一つのステータスになっている気がします。これも危険で、それに執着すると。いつの間にやら、人が求めていそうなことを行い、それが人からしたら迷惑だとしても、いとわずしてしまう。とりつかれてしまうんですね。
といったように、結局は何に対しても知らないという事が悪ではないという事です。知ってしまったことでの悲劇という事もあります。
例えば、自分が知っているスーパーが近くに1件しかないならそれが基準になるから、納得もできるし、感謝もできるし。ただ、これが知ったことで少し離れた場所に激安スーパーがあった。買いたいものも安かったと知ったらあーなんてことをしたんだろうと悲しむでしょう。
その原理と同じです。
何につけてもですが、すべて知ったほうが良いというわけではないのです。知らぬが仏という事だってあります。