欲しくてたまらない人。「木になった亜沙」
閲覧ありがとうございます。今日は、賞レース総なめと言ってもいいくらい、作品がどれも高く評価されている今村夏子さんの著者「木になった亜沙」を読んだコレアレを書いておこうと思います。
今村作品は、ぶっ飛んでいます。わたしは、物を書いたり、描いたり、創作する人は、「頭の中の労働者」と、思っていて、非常にエネルギーを使うだろうと思います。自分の頭の中の考えを具象化し、それを他人に見せるのだから、勇気や潔さも要ると思います。「作品」を見て、あれやこれやと批評されたり、とんちんかんな解釈をされたりもするだろうし、ストレスは付き物だろうなと思います。
今村夏子さんの作品は、「あり得ない」、又は、
「普通なら避けて通りたい」世界をばばばん!と
書いてきます。宗教家庭に育てられた女の子の物語「星の子」、発達障がいのある女の子のリアルでシビアな物語「こちらあみ子」など、今、そこにある現実を淡々と書いています。両作品とも、主人公は大変そうに思いますが、実際は、とても強くしぶとく生きて行ってます。「こういう人たちもいるのだから」というメッセージを送りたいわけでもなく、
感じる部分があるなら、考えてね。どっちでもいいけど。という淡々とした文章になっています。
「木になった亜沙」は、短編集です。
「食べてもらいたいのに、食べてもらえない」亜沙
「当たりたいのに、当ててもらえない」七未
三作目は、ちょっとファンタジーぽいので、取り上げませんが、この作品は、少し笑えました。
「木になった亜沙」は、小さな頃から、自分が与える食物は、誰にも食べてもらえない。友人にも、
家族にも(家族は病気の為食事制限があって食べてもらえませんでした。)
教室で飼っていた金魚でさえ、亜沙の手から落ちたエサは食べません。
亜沙は、自然といじめられっ子になりました。
亜沙が給仕した給食のおかずも誰にも受け取ってはもらえません。
亜沙の中には、悲しみと、なぜなんだというフラストレーション、そして、ちょっぴりの怒りが渦巻いていきます。
そして、いじめられっ子は、適性とタイミングが有れば、いじめっ子に変身します。亜沙は、いじめる側に回りました。
「自分を受け入れない世の中」を虐めたり、復讐をするために非行に走ります。
非行に走るのは、良いけれど、亜沙の「自分の手から、何かを食べてもらいたい」という欲求は満たされません。
また、二作目の「当たらない七未」は、授業では先生からも当ててもらえない。存在をスルーされている。そして、ドッジボールなどでも、最後の一人になり、ボールには当たらない。
「すげーな!あいつ!当たらない!」
「がんばれ!七未ちゃん!」
「がんばれ!がんばれ!」
周りのクラスメートは、応援しますが、いつまでも当たらないと、
「まだかよ。」
「もう、いいって。」
「空気読んで、もう当たれよ」
という雰囲気になってしまいます。
七未も、早く当たり、みんなと同じになりたい。
当たれば終わるのに。
当たらない。終わらない。自分は違う。
当てられたいのに。
人間は、「手に入らない」と思ったら、無性に欲しくなるのかもしれません。例え、それが第三者から見たらつまらないものでも。
亜沙は、木になる実を食べる動物を見て、「自分は木になりたい!木になって、誰かに実を食べさせたい!」と願うようになります。
そして、運命は亜沙に早すぎる「死」をもたらし、なんと、亜沙は、木に転生しますが、残念ながら、実を付ける木ではなく、スギノキに生まれ変わります。残念に思う亜沙ですが、そこは、今村作品、容赦ありません。
亜沙は、「割りばし」に加工され、コンビニに運ばれ、運命の男性にもらわれていく、、
という流れになりますが、ネタバレになりますから、ここら辺で止めておきます。
生まれた時からすぐに悪い個性が出たり、人間としての資質の優劣が決まるわけではなく、スタートは、みんな一緒の無垢なんだけど、不幸にも、育った巣に病魔があったり、毒があったら、
なにがしか、影響されない方がおかしい。
その子のせいでは、ありませんよね。
差別したり、いじめをする子も、そういう考えを持つまでの過程は、何かが影響してると思います。
今村作品は、ほんわかじんわりハートフルな作品ではありませんが、なぜだろう。読みたくなる。垣間見たくなる気持ちになります。
岡本太郎さんが
「危険だと感じる道があなたの行きたい道だ」と
言ってましたが、彼女の作品は、そんな道のようなイメージがあります。
新作が出たら、多分、手に取るんだろうなぁと
今から予感している私です。
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