自己承認欲求と向き合う
Youtube登録者数が1000人を超えた。
2月に初めて動画投稿した頃は、純粋に「自分の成長記録として残しておきたい」ってのと、動画編集するのが元々好きだったから「せっかくなら作った動画色んな人に見てもらいたいなー」くらいやった。
👍22 再生回数637回
そして先月、IELTS対策の有料記事を出すのに合わせて、初めてカメラの前で喋ってみた。
👍1700 再生回数38‘290回
実際、想像を遥かに超えた反響があって、Youtubeからnoteに来て買ってくださった方、フォローしてくださった方もいっぱいいて(①)、IELTS対策に役立つってコメントしてくれた方もいて(②)、すごいって言ってくれる人もいて(③)私のモチベーション=欲求は、十二分に満たされた、はずやった。
だがしかし。再生回数が増えれば増えるほど、売り上げが上がれば上がるほど、「ワーイ」って気持ちよりは、「いつこの波終わるんやろう」とか「次にどんなコンテンツあげよう」とか、なんか心がソワソワするようになってった。
自分軸のモチベーションやったのが、いつの間にか他人軸の評価(=再生回数、売り上げ部数)に心が左右されてることに気づき、この気持ち悪い状態を抜け出したくってぐるぐるぐるぐる頭の中で「自己承認欲求とは?」自問自答し続けた。
自己実現欲求が満たされた先にあるもの
思い返すと、私は元来自己承認欲求が強い人間だ(現在進行形)と思う。
というか、人間誰しも人に認められたい欲は心のどこかにあって、それがどれだけ顕在化しているか。
マズローの理論によれば、本来、人は低次の欲求が満たされることで、高次の欲求段階に向かっていく。
しかし、私は、上位二段階においては、新たな「満たされる」を知る(自己実現欲求の実現)ことで新たな「欠ける」を感じる(承認欲求の発現)のではないか、とこの経験を通じて感じた。
人は何かを手にすればするほど、手放すことが怖くなる。
一見、「何かを得ることは」すごく大変に思える。
だけど案外、何かを得る前の状態に戻っても尚、元の自分であり続け、同じ、もしくはそれ以上の幸せを感じられることほど難しいことはないと思う。
そして、何かを得ると、人は「守り」に入るようになる。
それは、得た物に対して「満足」したのではなく、リスクを冒すことでせっかく手に入れた何かを失うことが、何よりも怖いからだろう。
人との別れ、も、そうなのかな。とか思ったり。
すごい自分になりきりたい私
強がりで、見栄っ張りで、完璧主義なとこ。
昔から変わらない。
今までの負けず嫌いな自分が自分を強くしてきたし、これからも、そうやって悔しさで這い上がって、強くなっていくんだと思う。
だからこそ、今のまま他人の目を気にして、空虚な見栄っ張りしてちゃ自分の幹の部分がふにゃふにゃのままで葉っぱだけやけに鮮やかな緑の妖怪になっちゃう。
もしくは、殻だけ立派なヤドカリ。
「留学にきた理由」「将来のこと」何回も何回も聞かれすぎて、おんなじ台詞を繰り返すごとに口先だけ上手くなって、まるで出来上がった空想のストーリーの一節みたい。
面接用のこじ付け動機が、いつの間にか私の「ほんとう」のような錯覚に陥って、いつの間にか「ほんとう」だと自分でも思い込むようになる。
ほんとは将来のことも全然わかんないし、留学にきた理由も正直「かっこいいから」くらいの癖に、立派なこと、ほんとみたいに言ってる自分が全然気持ち悪い。
だから、「本当」に心の底から何かを楽しんで、やりたいことにまっしぐらな人を見ると、すごくすごく羨ましい。
スポーツですんごい結果残してるあの子、アートの道に進んだあの子、研究に没頭してるあの子。絶対言わんけど。
なぜなら、自分も「そんな真っ直ぐな人」を演じてるから。
そして「演じていること」に気がつかないふりをして、自分自身の心を騙し続けてきたから。これぞほんとのPretender(髭男ファンに怒られろ)
ちっちゃい時、なんなら高校生くらいまでは、「本当」に心から好きで心からの「これやりたい」があった気がする。それはスポーツだったり、絵だったり、サイエンスだったり。
それがいつしか、「奨学金のため」「将来のため」(将来ってなんなんだ?)他人から評価される自分、になりきって、そうあり続けるために必死になっている滑稽な自分、に気がついた。
そして気がついた今、また、自分軸で生きていきたい、と強く思った。
承認欲求が強い=自己肯定感が低いなのか?
自己肯定感って言葉、すんごく気持ち悪い。
他人に評価されることを恐れるが故に、自分自身で自分の承認欲求を先に満たしておく魔法の言葉みたい。
自己を肯定する感情を低く持っていて初めて、自分の心と向き合えるのではないか。「自己肯定感が高い」ということは、自分の中の目を逸らしたい部分に盲目であり続けること、でもあると思う。
しかし、自分の人生に悲観的になること、自分を蔑むこととは違う。
私はなぜ発信を続けるのか?
「自分の経験が人の役に立てばいいな」これは本当に心からの想い。
だけど、私の心は映画の主人公みたいな純粋で真っ直ぐなもんじゃないから、常に見栄っ張りな私の「欲求」が付きまとう。
換言すると、人助けという名目での自己実現欲求満たし。
「偽善者」って言葉が頭によぎることもあった。
でも、自分が「善」だと信じてやってる以上、誰も「偽」だと決めつけることはできない。「真」なのか「偽」なのか、自分の心次第だから。
そもそも、その発想自体が他人に「偽善者だ」とか「自惚れだ」とか、思われるのが怖いから生まれるのであって。「真の善」にできるのは自分自身なのにね。
今の自分は、「他人軸」で自分の人生を客観視し、自分で自分の人生を評価しようとしているのではないか。
結局、全部「自分の為」であることに変わりはないけど、あくまでも自分軸の「自己実現欲求」が動機にあり、他人軸の「承認欲求」に引きずられ、飲み込まれないこと。
「自分軸」で、自分の人生の舵を取る。
カッコつけて「すごい自分」演じて生きてたら、それがいつの間にか「本当の」自分になる。それはそれでいいんじゃないかな。
私は人からの評価を気にしやすい人間。だからこそ、自分が発信し続けることで自分が頑張れる。
そして「ほんと」のフリした「やりたいこと」であったとしても、「私はこれがやりたい」って言い続けてたら、誰かが反応してくれて、また私を前に進めてくれる。
中学の美術の教科書の端っこの名言集、この言葉だけは今でも覚えてる。
一旦これ、試してみるか。