「勝ちたい」中毒から抜け出したい
今回は、私が長年苦しんできた“燃え尽き症候群”と“頑張ってるのに何故か虚無”に対する一つの提案です。どうか最後まで読んでほしいです。
第1章 勝ち負けは絶対的指標なのか
中学・高校・大学の部活で、「勝ち」にこだわるメンタリティを徹底的に叩き込まれた。なんなら、小学生でバレエしてた時からもう始まってたかな。
これによって、今の自分の核が形成されたのは確かだから、否定するつもりは一切ない。
しかし、最近友達からの指摘で気がついたことがある。
まさに、勝利至上主義。
「それは素晴らしいことじゃないか!」とある人は言うかもしれない。
部活に所属するうちは、それで良かったし、それが良かったのかもしれない。
しかし、この先一生「勝ち」にこだわり続けるのか?
果たしてそれが本当に自分の生きたい人生なのか?
そもそも私はなぜ、勝ちにこだわるんだ?
ここ数週間、私はずーっとこの問いに向き合っていた。
じゃあその結果って、何なんだ?
そもそも努力って何なんだ?
結果が全ての目的なのか?
ーかなり極端な発想ではあるが、自分の善し悪しを「勝つ」か「負ける」か、という構造に依存した人間であり続けることは、誰かが生み出した評価基準の上で、競い合わされる駒の一つになる、という解釈もできる。
どの界隈でも「勝ち負け」という構造には創造者がいる。
それはスポーツに限らず。
学問における賞であれ、基準はその賞を創設したものによって定められる。
受験だって、部活の全国大会だってそうだ。
勝負というものは、一言で言えば「定められた指標において、自分がどれだけ長けているかの審査」である。
《結果というものは、絶対的に見えて、限りなく相対的なのだ》
第2章 勝利への執着
大学で、ウインドサーフィンに出会った。
「大学スポーツでは珍しい、99%が初心者。誰にでも勝つチャンスがある!」という謳い文句に「勝ちたい欲」を刺激された私はみるみる沼った。
「今度こそは」と藁にもすがるような思いだった。
今までバレエ、剣道、陸上と、どれもそれなりに努力して、それなりの結果を出してきた。しかし結局は、本当の「才能」を目の前にして「やっぱりここで自分は1番にはなれない」ってことを思い知ってやめてきた。
そして当時は、「自分がなぜ勝ちにこだわるのか」など考えたこともなかった。
「自分は負けず嫌いな人間である」という事実がそこにある(ように思い込んでいた)だけで、疑いもしなかった。
「失敗」「負け」を極度に恐れ、他人に対してをも同じ評価軸「成功」「勝ち」の人が「すごい人」なんだ、という歪んだレンズで見ていた。
しかし、私の「とにかく勝ちたい」で続けてきたモチベーションは、3年目の最後のインカレ予選に落ちたことで見事に崩れ落ちた。
残酷な程にあっさりと。
勝ち負けに固執してきた私は、大会が終わってしまうと何をすればいいのかわからなくなった。もう目標も何もない。
いわゆる「燃え尽き症候群」
そしてこれからは、もっと早めに見切りをつけて、自分の得意なことで勝負しよう、と心に決めた。
そしてそのやるせなさと虚無感を埋めるように、大会終了後、狂ったように筋トレし、走りまくり、減量し、3ヶ月でボディビルとトレイルランとハーフマラソンの大会に出た。そして案の定うまくいった。なんてったって、「自分の勝てそうなフィールド」を見極めて勝負しにいったんだから。
うまくいきすぎたぐらいだった。
その時は、本当に嬉しくて、充実してて、「これこれ〜」って調子こいてた。
じゃあ、その「得意なこと」「なんかうまくいきそうなこと」で勝つことが、何故それほどまでに重要なんだ?
できないより、できた方が楽しい。
それは誰だってそうだと思う。
しかし、物事を始める動機を「勝ち」や「成功」に定めるということは、「何とかして自分が他者より優位に立ちたい」という非常に滑稽なコンプレックスの塊なのではないか?
そして何よりも、多くの時間と体力、精神の犠牲のもとに「勝ち」や「成功」は成り立つ。そして一度勝負事が終わってしまえば、勝ちでも負けでも一生その余韻に浸ってはいられない。
《勝利の快楽は永遠には続かない》
第3章 「努力」依存
人間界には、同じ考え方や価値観を共有する人々が所属する、いくつもの異なる思想空間が存在する。
自分の現在所属する空間に浸る能力が高い人は、自分の人生の意味や目的、存在を疑う事もなく「楽しく」「充実感を持って」生きていける。
例えば、私が今まで所属しがちだった「努力至上主義」空間があるとする。
そこでの価値観は、以下の通り。(友だちに直接指摘された時のスクショ)
その部分を特に「当たり前やん」って思った私は、確かにかなり強く偏った思い込みがあったのだと思う。
それに対して、「日々の幸せを噛み締めよう」空間の人は、ある種の狂気のように見える「努力至上主義」空間の彼らと自分とを線引きし、自分とは「違う世界の人々」として何にも囚われる事なく自分の人生を歩むかもしれない。
しかし問題は、その間を彷徨う私のような人間だと思う。
一時的に、何かに取り憑かれたようにある世界にのめり込む事もあれば、夢が醒めたようにぱったりと何のやる気も無くなってしまう。
そして没入する世界で生きることの快感を一度味わってしまったからこそ、いわば没入感ジャンキーとなる。
だけど時々やってくる「自分には今、何もない」という虚無感。
そこで強い喪失感と何もしていない不安に襲われ「なんでも良いから夢中になれるもの」を求める。
ーそんな離脱症状から、1番手っ取り早く抜け出せるのが「勝負事」だった。
「勝負」となれば、居ても立っても居られない。
人間の生存本能から来るのか?
本能的にワクワクして一気にのめり込む。
あとはその世界で称賛される行為に従えばいい。
ーそれはこの種の世界で共通して存在する「努力」という概念。
自分が自分の時間を消費するもっともらしい理由を付与してくれる。
私は今まで「努力」依存症だったとも言える。
自分自身を何かに縛り付けることで、あれこれ思い悩む必要がなくなる。
やることは決まっていて、ただひたすらそれを淡々と実行すればいいのだ。
自分の心や身体の声に向き合うのではなく、目の前のミッションに没頭する状態に入ることで安心し、快楽を覚える。
退屈への耐性が極端に低いがために、虚無感から逃げるために、自分を意図的に没入させ続けてきた。
その没入の快楽を一度知ってしまったからこそ、何かに一途に熱心になっている人を見て「羨ましい」と感じる。
第4章 没入感の快楽と虚無感
しかし、早かれ遅かれ自分の虚無を埋めてくれると期待していたものに「夢中になれない」自分の存在に気がつく。
大会が終わったって、スポーツ自体を楽しめる人はたくさんいる。
だけど私はそうじゃなかった。
その場面に際して、自分が願って始めたはずのことが自分を悩ませている矛盾に悩み始める。
そこで陥りがちな考えが、「私の努力が足りないから」である。
その時夢中になれている、没入している人を見て羨ましく思う。
私が本当になりたかったのは、その状態なのに。
何かに「打ち込みたい」と思って始めた何かの中にいながら、打ち込めない自分。
自分の外側に何もない、虚無空間(「何かしなければ」の強迫観念)から、夢中を提供してくれる空間(自分の虚無な時間を消費してくれる対象)に入ったはずなのに、今度は自分の内側から虚無が生じ、私の心を蝕んでくる。
そして、何をやってもどっちにしろ空虚である自分という存在に気がついてしまった人間は、まず「自分にはやりたいことがないからだ」と悲観的になる。
これを「燃え尽き症候群」の観点から考えると、大勝負の後で新たな勝負(=刺激)にすぐ飛びつく者(「新たな挑戦」と賞賛されがちなもの)と、今まで没入してきたものにポツンと取り残された虚無感に苛まれる者に分かれる。
今までの私は、紛れもなく前者の「新たな挑戦」タイプだった。
虚無空間に耐えきれず、一目散に何か自分が没頭できるものを見つけて飛び込んできた。
しかし、何事にも取り残され、虚無感に苛まれる状況に立たされて、初めて人間は「内省」という哲学の領域に入る。
《私はいったい何のために今まで頑張って来たのか?》
第5章 「忙しい」は充実の証?
ここで、少し違った角度から没入感について考えてみる。
「時間を無駄にしたくない」の本質は何だろう。
常に効率化・最適化を目指した高性能時間消費マシンのような人生を歩んできた私が、最も目を逸らしたい問いである。
忙殺、という言葉は非常に面白い。
忙しさに殺される。
私は今まで喜んで「忙しさ」に自分の命を捧げてきた。
忙殺は奇妙な心地良さを与えてくれる。
そしてそれが「充実感」だと思い込んできた。
果たしてそれは、本当に充実なのだろうか。
必要なものとは何なのか?心は何で満たされているのか?
そんなことを考える中で思い至ったのが、時間は絶対的な価値を持たないということ。
例えば、飲食バイトの給料日週の金曜の夜。
時間はあっという間に過ぎて、締め後には“充実感”のようなものを感じる。
もらえるのは、いつもと同じ時給1000円だとしても、私は喜んで金夜を取るタイプだ。=暇への耐性が弱く、没入感依存症
それに対して、できるだけ暇な水曜の昼ばっかをシフト希望する人もいる。
そんな人にとっては、忙しさは単なる過重労働であり、できることなら楽に同じだけ稼げばいい。=暇への耐性が強いタイプ
私は、スケジュールを毎日10分刻みで詰め詰めにすることが当たり前で、それに対して苦痛に思ったことは無かった。15歳の時から、すでに6年以上デイリースケジュール帳に10分刻みに予定を立てることを続けてきた。
私のスケジュール帳を見た友だちは「どこにそんな時間があるんだ」と言った。
それで私は「自分は効率よく時間を使うのがうまいんだ」と誇りに思ってきた。
だけど、そうではなくて、私という主体を通じて感じる時間が他の人と異なるのだとしたら?
別に、わざと忙しくしてるつもりはなかったが、振り返ってみると、「いかに効率よく、空いてる隙間を埋めていくか」テトリスのような感覚はあった。
自分の根底にある「暇耐性の無さ」が自分の時間感覚をそうさせていたのかもしれない。
加えて、時間というものは、人間の設定した人間の枠組みに過ぎないことを忘れてはならない。
時間という概念を、24に分けて60に分けてさらに60に分けて。
区切りの単位を決めたのは、紛れもなく人間だ。
その時間ルールが使われているのは、ただ「うまく機能する」からである。
セミの寿命が1週間、は有名な話だろう。
それを見て人間は「短い」と思う。
それは、無意識的に人間の時間軸に当てはめて、時間を絶対的・普遍的価値を持つものであるように錯覚しているからだ。
セミたちにとっての1週間は、一生なので合って、それが短いでも長いでもない。
この考え方を個々の人間に適応してみたらどうだろう。
毎日編み物をする生活を何年も続けているおばあちゃんと、大会前のスポーツ選手。
この二人の主体から見た時間を比べると、時間の価値観は主体によってかなり違ってくる、という意味がなーんとなく分かると思う。
彼は別に急いでもないし、おばあちゃんは意図的にのんびりして1日なんとか退屈を偲んでやり過ごそうとしてるわけでもない。おばあちゃんに「編み物して何年も過ごすなんて時間の無駄だ!」なんて誰も思わないだろう。
「時間を無駄にしたくない」という考えは、時間というものが絶対的価値を持つという間違った前提の上で成り立つ。
《人生は、手持ちの時間を使ってどれだけ多くのことを成し遂げられるか選手権ではない》
第6章 「やりたいことがない」への提案
ここまで、結果・勝利・努力・没入感・時間というテーマについて長々と論じてきた。
それでは、暇に耐えられない、外からも内からも虚無感に苛まれた人間はどうすればいいのか?
ー「目的のない楽しみ」を認識すること、が今の私の提案である。
振り返ると、スポーツとなると、今まで本能的に「楽しむ」センスが欠如している代わりに、「没頭する」能力が妙に長けていたように思う。
その方が私にとっては「楽」だったからだ。
しかし、今後は虚無からの逃避で、自分の人生をただ没入の快楽で消費し続けることをやめたい。
そのために必要なのは、なりふり構わず結果を求めた受動的な「努力」をするのではなく、何かを能動的にする「楽しみ」を思い出すことだと思う。
(道のりは全然違えど、先月書いたnoteの結論と似たようなところに至ったのが面白い)
(ちなみに、一つ前の記事とは相反することを言っているのも、もっと面白い。考え続けるうちに、この考えが妙にしっくりこなくなった。しかし今の考えに至るまでの過程として読んでもらえたら嬉しい。)
そして、「私の楽しかった思い出は何だろう」と思いを馳せると、驚くことになんやかんや部活での思い出ばかりが浮かび上がってきたのだ。
しかしそれは、最初に認識したような「勝利への執着の側面」ではなかった。
私が本当に好きだったのは、大会に向けて友達と「今度こそ自分らが勝つんやー!」とか野心を語り合ってた帰り道だったり、陸上の走っている中で得た身体感覚について、外が真っ暗になるまで議論し合ってた部室での記憶だったり、遠征帰りのハイエースでチームについて真剣に話し合った夜だったたり。そんな瞬間だった。
そして恐ろしいことに、そんな幸せな瞬間でさえ、勝ちへの拘り、目標を失った喪失・虚無感によってかき消されそうになっていた。
没入することと楽しむことは表裏一体であり、没入感が快楽なのは紛れもない事実だ。
しかし、そこに「成功・勝ち以外の価値観」が存在することを定期的に思い出す作業をしなければならない。特に私みたいな没入型人間は。
あまりに当たり前の結論で拍子抜けしてしまうが、私はそんな大切なことを忘れかけていた。
スイスに来て、自分の心にゆとりが生まれたことで思い出せた。
スイスで感じたのは、大会とか出たことも考えたこともないけど、純粋にスポーツ自体を楽しんでる友達がめっっっっちゃくちゃ多い。大学での勉強だって、2年くらいやってみてその学部が合わなかったら、全く違う学部で1からやり直してる子とかいっっっぱいいる。(例えば、クラスに社会学やめて地球惑星科学に来た子が2人もいる)
もしこの留学の機会が無かったら、私は日本で一生「自分を没入させてくれる世界に時間を捧げて充実していると錯覚し続ける」人生だったと思う。
日本で(少なくとも私が持っていた)固定観念の多さ、「良い」とされているものの無意識な決めつけは、生きづらくもあるが、反対に思考のプロセスを取り除いてくれる非常に「楽」なシステムでもあった。
例えば、体育会系は就活に強い。部活で頑張ってる人はえらい。留学してる人はすごい。起業してる人は意識高い系。みたいな。
それがこっちに来て、私が「すごい」としてきた価値観を同じように共有している人は非常に稀であることにやっと気がついた。
いや。日本にいたからわからなかった、というよりも、10年もバリバリの体育会系部活かつそこそこ進学校の環境で過ごしてきたから、いつの間にかガチガチの固定観念が築き上がっていたのかもね😬
日本にWorkaholicの人々が溢れているのも、そのせいではないか。
結局は、考えることが面倒で、形式的な慣習に従うことは安心と快楽をもたらす。
人生消費マシーンになっていないか。(そして体育会系が就活を牛耳るこの国の根底には、日本の努力至上主義すぎる部活があり、地域移行で教員の負担はマシになる反面、競争社会は更に熾烈化していくのではないか…。とか考えたり。この話は長くなるからまた他の記事で…。)
具体的な提案
はい。やっと。ごめん。長すぎた。
だけど結論だけ書いても何も伝わらないんだよ😇
じゃあ「やりたいことがない人間」は何をしたらいんだ?
そもそも、あなた一人が何もしなくても人類全体として困ることはない。
だからこそ、なーんか生産性のない「趣味」と呼ばれる物事を片っ端から試していっても良いと思う。
その中から選ぶなんてことは、えらく受動的で滑稽に思えるかもしれないが、「やりたいこと」が無いのは事実なのだ。
手持ちの札に気づけていないのではなく、「趣味はまだ無い」のかもしれない😺
または過去に出会っていた何かだったのかも。昔の記憶を辿るのも良いだろう。案外面白いかもしれない。
「将来何がしたい」だの議論する時に、つい「人生の目的」は何か仕事とか社会に関連させたものではいけない、みたいな風潮も、そもそもおかしい。
自分で生きていけるお金さえ稼げるんだったら、「勝ち」とか「成功」(と呼ばれる相対的評価)に固執することなく、自分が「なんとなく楽しい」と感じる時間を過ごしていく。そんな生き方を私はしたい。
そんなこんなで1周回って「自分のやりたいことは無いんじゃなくて、人を喜ばせることなんだ」って気持ちになるんかもしれんし、「やっぱスポーツしてる時が1番楽しい」のかもしれない。
大切なのは、「君たちは何をして生きるか」ではなくて「君たちはどう生きるか」なんだよな。やっぱり吉野源三郎先生はすごい。
お世話になった本や作品
この1ヶ月ちょっと本当にアイデンティティが拡散してた。
でもそんな時、ふと思い出させてくれる本とか哲学の引き出しがあり、率直な意見を直接伝えてくれる友達がいて。本当に私は恵まれている。
追記:
考えに考え、煮詰めまくった自分の頭の中をどおしても表現したかった。そのために絵にこだわり始めた。前までメモの落書き機能で描いてたけど、今回ばかりは絵描くアプリ入れた。そのせいで、記事書き始めてから出すまでえげつない時間かかった。お待たせしました。誰も待ってないか。ちなみにこれ1枚の絵!!!これが私の今やりたいこと、なのかも。