#8 編集部の助っ人
アウトドア雑誌にとって、夏は稼ぎ時である。日が長いから撮影がしやすいし、目の前には夏休みが迫っている。夏休みといっても一般的な夏休みという意味で、柚木たちに休みがある訳ではない。学校が夏休みに入れば、ファミリーがこぞってキャンプ場を訪れる。7月後半から8月いっぱいまでは、日本中どこのキャンプ場も満員だ。月刊キャンプの売上も8月号が一番大きい。にわかキャンパーたちがキャンプデビューする時期でもあるからだ。
「柚木くんだよね。嶌ちゃんは?」
不意に声をかけてきた主は、ハスキーボイスの女性だった。
「編集長は、ただいま外出しております」
本当はまだ出社していないだけなのだが、当り障りのない返答になった。午前中に編集部にいるのは柚木だけのことが多い。今日はバイトの小峰も外出しているから、編集部はお祭り前の神社のようにがらんとしていた。それにしても、編集長の嶌のことをちゃん付けする人は初めてだ。
「私のこと、わかるかな?」
「ええ、赤瀬さんですよね。嶌編集長とは古いお知り合いだとか。今日は打合せですか?」
赤瀬は社内の雑誌編集部に出入りしているフリーの編集者兼ライターだ。専門は何なのかはわからないが、百戦錬磨の雰囲気がある。声が大きいので存在感も大きい。よく大声で笑っている印象がある。柚木が言葉を交わすのは初めてだが、初めてのような気がしない不思議な人だ。
「古いも何も、腐れ縁。でも、今回は嶌ちゃんがお仕事くれるって。アウトドアの雑誌はじめたんだってね? 嶌ちゃんの隣、大変でしょ」
編集部の机は入り口側が柚木、その隣が編集長の嶌となっている。整理整頓された柚木のデスクとは正反対に、書類の山が積みあがっているのが嶌のデスクだ。
「思っていた以上にハードです。今日が何曜日なのかわからなくなるほどです」
「だよね~、私もわかんない」と赤瀬。
月刊キャンプの入稿締め切りは毎月15日、校了はその10日後の25日で、発売が翌月の1日と決まっていた。翌月の3日~10日のうちに次の号のロケを行い、写真がそろった段階でデザイナーへのデザイン発注を行う。13日にデザインアップしたとしたら、入稿までの3日間で原稿を書かなければならない。切れ間がなく、まさに休む暇がないスケジュールだ。
発売されたばかりの月刊キャンプ7月号を見つけた赤瀬が言った。
「まぁ、かわいらしい女の子。素敵じゃない。どこで見つけてきたのよ」
7月号の表紙は海岸でのバーベキュー。シャンパンの栓を開けるアンリと傍らで見守るオードリー。シャンパンが水しぶきを上げ、オードリーが歓声を上げている。水しぶきがこちらにも飛んできそうだ。その躍動感のある一瞬を、カメラマンの五十嵐が見事に抑えた。柚木もお気に入りの表紙である。
「わざわざオーディションやったんです。総勢50名から選び抜いたうちのカバーガールですよ」
オードリーの評判は予想以上によかった。なかでも女性からの受けがいい。同性の母親から支持される女の子、というコンセプトでの選出は、決して間違っていなかったと柚木は安堵していた。
「嶌編集長が助っ人を呼んでいる、と話していました。赤瀬さんのことだったんですね」
「なんか、毎月一回、読者と一緒にキャンプミーティングするんだって。私キャンプなんてしたことないよ。どうなっても知らないから」
「毎月やるんですか!? 前は年に1回読者交流のキャンプミーティングをしていると聞いていましたが、それを毎月だなんて」
先月の読者ミーティングの感触がよかったからだろう。月一の読者ミーティングなんて前代未聞だが、だからこそ嶌がそこに目を付けてもおかしくない。
「編集部員は忙しくて連れて行けないから、つき合えって言うのよ。会場となるキャンプ場の確保からはじめて、報告ページまで担当するんだって」
嶌はリニューアル以降、毎号少しずつ新たな企画を追加していった。先日は料理研究家の女性を編集部に連れてきて、簡単で見栄えのいいアウトドア料理を毎月4品提案してもらえるように依頼をしていた。レシピ考案と食材調達を含んだ実際の調理、そして原稿を合わせてだから、編集部側はあまりすることがない。カメラマンを手配して、撮影はその料理研究家の自宅で行うこととなった。当然、撮影の後にはその料理を味わうことができる。
この幸運な料理ページの担当には磯野が選ばれた。
「こいつ、毎日コンビニのしけた弁当しか食べてないんだ。月に1回、うまいものジャンジャン食わせてやってくれ」
こうして月刊キャンプに料理ページが連載として組み込まれた。
嶌と赤瀬は翌月、月に一回の読者ミーティング企画『キャンプ場で会いましょう!』(通称「キャン会い」)をスタートさせた。参加グループははじめ50組くらいのこぢんまりとした規模であったが、みるみるうちに100組、150組と増えていった。会場となるキャンプ場は常に満員御礼となり、次の開催地に立候補するキャンプ場まで現れた。アウトドアメーカーの協賛もついて、イベントはびっくりするような盛況ぶりである。
キャン会いの報告ページでは、参加者すべてが実名入りで写真を掲載してもらえる。ファミリーキャンパーにとってはよい思い出となるし、参加者が必ず掲載誌を買ってくれるから読者と雑誌双方に利がある。祖父母の分や保存版用まで何冊も購入してくれる読者もいた。この報告ページで名前と写真を間違わないよう、神経をとがらせるのが赤瀬の重要な役割でもあった。
おそらく、この赤瀬の投入も女性がいない、という月刊キャンプ編集部の欠点を補う効果を期待してのことだろう。もちろん、編集部員の負担軽減にもなる施策である。嶌はその強引な物言いとは裏腹に、繊細な戦略家でもあるのだ。
赤瀬が今日はアロハシャツが現れないことを悟って編集部を後にすると、今度は太い声が柚木を呼び止めた。
「どうだ? 雑誌編集部の居心地は?」
声をかけてきたのは花井であった。嶌の同期でいまは女性向け雑誌の編集長を務めている。嶌のデスクが空っぽなのを見つけると、嶌の椅子に座って柚木に声をかけてきた。編集部にはまだ誰もいなかった。
「まだ慣れたとは言えません。毎日が戦場のようです」
「ヤマドリは喜んでいるよ。前の雑誌には飽きてきたところだったしな。新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいだ」
嶌のことをヤマドリと呼ぶのは同期だからだ。山冠に鳥と書くからヤマドリ。ほかに嶌のことを会社でこう呼ぶ人はいない。特別な仲であることがうかがえる。
「しかし担当して一カ月後にリニューアルをかけるとは奴らしいよ。俺だったら絶対できない。できないし、しない」
「同感です。はじめは気合いを入れるためのハッタリかと思いました。でも有無を言わさず決断し、実行しました。嶌さん得意のパワープレイです。おかげでこちらは休みなしですが」
本当のことだった。最初のひと月に柚木は一日も休んでいない。翌月は一日休むことができた。それも友人の結婚式があったからだ。最近は月に3日ほど休めるようになっただろうか。
「俺も月刊誌にきたときには面食らった。漫画畑に10年近く居たもんだからな。あいつはずっと雑誌畑だったから、それが当たり前だと思っている」
出版社での仕事は携わる媒体によって千差万別だ。書籍であれば一人でひとつの作品を担当する。小説や漫画であれば作家ごとに担当が割り振られているはずだ。雑誌は編集長を筆頭にしたチーム編成となり、月刊キャンプはまさにそのスタイルだ。柚木が前にいた旅行ガイドブックはシリーズものであると同時に書籍の類であったから、やはり一人で一冊を担当する。柚木は年間で四冊の新刊を担当するという具合だった。
「天職ですよね、嶌さんにとっての雑誌作りは。嶌さんを見てるとそう思います」
二人は同期だが、年齢は花井が二つ上だと聞いたことがある。どちらかというと小柄な嶌にくらべ、花井の身体は大きくてがっしりしている。高校時代、ラグビーでもしていたのかもしれない。
「だが、あいつも少し丸くなった。というか成長したんだろうな。相方にお前のような奴を選んだ。なんでお前を指名したかわかるか?」
異動の内示を受けた当初、お前は俺が指名した、と嶌が豪語していたのを思い出した。部下をその気にさせるお得意の話術かと思っていたが、興味深い話だ。
「本当だったら、以前に部下だった馴染みの奴を指名したいところだ。だが、あいつはお前を指名した。お前とヤマドリじゃ共通点を見つける方が難しい。長所と短所がそれぞれ逆だ。だが、それが噛み合ったら面白い。いわゆる凸凹コンビってやつだな」
嶌の長所は類まれな発想力とリーダーシップだ。社内、社外を問わず、人心の掌握力は並外れている。一方で、細かな書類作業やスケジュール管理には抜けているところがあると言わざるを得ない。日がな一日、領収書を探して書類の山をひっかきまわしていたこともある。そんなことだから、小さなことで足を救われる危険性も高い。自分の短所を補う存在として、柚木を選んだのかもしれない。
「自分にあと三年くらいの経験があればと思います。現状で、嶌さんとコンビを組めているとは考えていません」
本心だった。嶌と柚木ではひと回りも年齢が異なり、編集者としてのキャリアはそれ以上に離れているように感じていた。現実問題として、上司と部下以外の何ものでもない。
「どうせつぶれるはずだった雑誌だ。好きにやってみたらいい。つぶれてもお前らのせいだとは誰も思わんさ」
果たしてそうだろうか。この人は、自分が担当する雑誌が休刊することになったら、それを平気で受け入れるだろうか。そうではないだろう、と柚木は思った。
「今日は編集長になんのご用ですか?」
なんとなく話題を変えたくなった。
「ああ、今夜そこの有楽町よみうりホールで立川談志師匠が独演会するんだよ。そのチケットを買ってもらったから、支払いにな。師匠が元気なうちに聞くべきだってあいつがうるさくてな。ま、ゴルフはよく二人で行くんだが、たまにはあいつが心酔している師匠の落語ってやつを聴いてみるのもいいかと思ってな」
*
月刊キャンプを4月にリニューアル創刊してから数か月が経ち、柚木は月刊誌の忙しさにも少しずつ慣れてきた。休日をとることは難しいため、土日は休みだという発想自体を諦めることにした。休日が仕事でつぶれると考えれば負担だが、仕事だと思っていた日が休日になるのは嬉しい。半日だけでも休みがとれればこのうえないご褒美だった。
柚木は達人コラムの執筆に入る。編集者が自分の原稿を書く時間を捻出することは難しい。嶌が自らを含めた五人の編集者に課した『アウトドア達人コラム』は、最後にとりかかる仕事でもある。柚木にとって、執筆の機会を得られたことは月刊誌にきたことの大きな収穫でもあった。
吉岡は「道具」、磯野は「天気」、ガシャポンは「本」、嶌は「酒」をテーマに選び、それぞれがアウトドアにちなんで毎回趣向を凝らしたコラムを書いていた。柚木が選んだテーマは「鳥」である。
柚木は子供の頃から野鳥観察が好きだった。小学校の夏休みの一研究は決まって野鳥がテーマだ。中学に上がると、担任が生物のスペシャリストだったこともあって、後押しを受けた柚木の野鳥研究は県の展覧会で金賞を受賞したこともある。おかげで、野鳥の鳴き声や姿形を見ただけでだいたいの種類が見分けられるまでになった。その特技がこんなところで生かされるとは、柚木自身おもしろいものだなと思った。
ペンネームは「みずさわちなつ」とした。嶌から女性ペンネームにするように指示されていたからだが、表記をひらがなにすることでさらにやわらかさを出したつもりだ。
今回、ターゲットにしたのは「コマドリ」。頭と顔の部分がオレンジ色なのが特徴で、ウグイス、オオルリとともに日本三鳴鳥に数えられる人気の夏鳥だ。「ピーリリリ、ヒンカラカラ」というさえずりは力強くて美しい。江戸時代、馬のいななきに似ていることから「駒鳥」と名付けられたという。そんなエピソードを紹介していると、1ページのコラムはじきに仕上がっていた。書くことを仕事にできたようで、柚木は充実感を味わっていた。