#33 ポケットのなかの笑顔
柚木が指揮をとった急場しのぎの編集部は、ガシャポン、鹿野、小峰に加え、カナダから急遽帰国した磯野が合流して再び動き出していた。外部スタッフとなっていた吉岡も加わり、嶌と赤瀬が抜けた状態の誌面を埋める作業を手伝ってくれた。磯野は嶌の自宅へ挨拶に行き、カナダの土産話と引き換えに正式に復帰が認められていた。
「わがままで自分勝手な上司をもったお前たちは、本当に気の毒だったな」
退職の際、送別会の類を頑なに固辞した嶌が言った。
「わがままで自分勝手な人間っていうのは、それを認識していない人のことですよ。嶌さんはそれがわかっている分だけ、まだましです」
皮肉交じりに答えた柚木は、いつか赤瀬が言ったように、二年前に比べると幾分か図太くなっている自分を感じていた。
柚木が心掛けたのは、落語の高座で、噺家が変わるときに行われる「高座返し」だった。それまで演者が座っていた座布団をひっくり返す所作のことをいう。座布団に残っている前の演者の温もりをとって、次の演者に渡そうという心遣いである。これは前座や、前座がいなければ若手の噺家がするべき仕事でもある。月刊キャンプは、二年前のあのときと同じように、演目の変わり目を迎えていた。
柚木たちは、嶌という編集長がいないなかで、3月号と4月号を発行した。5月号の前にようやく新しい編集長が赴任することとなり、新たなスタートを切ろうとしている状況であった。
*
それから約5カ月が経って、柚木は自宅へと向かう京浜東北線の夜のホームにいた。あえて人気の少ない後方車両付近を選んで立っていた。手には小さな花束を持ち、背負っているカバンには荷物がたくさん詰まっていた。東京の9月の夜風には、明らかに秋の気配が混じりはじめていた。
その日、柚木は八年半を過ごした出版社を退職した。仕事納めをした後、磯野をはじめ、ガシャポン、鹿野、小峰、吉岡という編集部の面々や、デザイナーの根津やカメラマンの五十嵐、同期である広告部の辻礼子、販売部の馬渡たちが集って、ささやかな送別会を開いてくれた。そこには久しぶりに見る、嶌勇作と赤瀬美佳の姿もあった。
人気の少ない夜のホームに立っていたそのとき、柚木の胸中にあったのは決して達成感でも満足感でもなかった。消し去ることができない、寂しさがあった。こんな思いをするのは自分で最後にしなければならない、そんな決意が胸の奥にあることに気づいた。
柚木はスマホから「オードリー」の電話番号をタップする。仕事とは関係なく、プライベートで彼女に電話をかけるのは初めてのことだった。
「柚木さん! 美緒です」
久しぶりに聞く彼女の声が、心地よく鼓膜に響いた。
「よかったー。私、いま映画の撮影で長野の八ヶ岳にあるロッジに来ていて、ずっと星空待ちをしていたんです。もう今夜は無理かもしれないから、いったん休憩にしようってことになって、スマホの電源を入れることができました。電源入れたら、柚木さんから着信が鳴って、ちょうど出ることができたんです!」
映画の撮影は順調のようだった。『迷える星たち/Lost Stars』には、文字通り夜空の星をからめた撮影があるのだろう。八ヶ岳なら星空にも近い。奇しくも、数日後に柚木が帰る長野にオードリーはいるのだった。
「柚木さん、もしかして、今日・・・」
その日は9月30日。柚木にとって29歳の最後の日でもあった。
「ああ、今日、会社を退職したんだ。磯野やガシャポンたちが送別会をしてくれて、これから帰るところなんだよ」
「カツオさん、戻ってきてくれたんですね!」
「ああ、鮭じゃないけど戻ってきましたって言って、辞める間際の嶌さんに復帰を認めてもらったんだよ。笑えるよね」
「私、柚木さんに伝えなければならないことがあります。前に焚火を見ながら柚木さんのお話を聞いて、私はなにも言ってあげることができなくて、ずっと後悔していたんです。それどころか、生意気なことを言っちゃって、本当はあんなことを言いたかった訳じゃなかったのに」
命を粗末にするような言い方は好きではありません、と言ったオードリーの言葉のことだろう。次に同じことを口にしたら許さない、とまで言われた。あれはたぶん、コップの水をかけられたアンリに匹敵する出来事だった。だが、一番彼女らしい、一番、小鳥美緒を表している言葉でもあった。
「柚木さん、前の電話では私に喋らせてくれなかったから、私は言いたかったことが何も言えなかったんですよ。だから、今度はどうしても伝えたいんです」
表紙モデルの契約を終了する旨を伝えた、半年前の電話のことだ。たしかにあのとき、柚木はオードリーに感謝の気持ちを伝えることで精一杯で、彼女からの返答はあえて受け付けなかった。そんな余裕が、ないときでもあった。
この世界は問題だらけだし、
うまくいっていないことも多いけど、
でも、君のような人がいてくれることが、
僕は本当に嬉しいんだ
君のいる世界に生きていることが、
ただ嬉しいんだよ
だから、これからも君らしく生きてほしい
怒ってもいいし、泣いてもいい
でも、君の一番はやっぱりその笑顔だよ
だから、笑顔を忘れちゃいけないよ
「柚木さん!」
柚木自身が半年前の言葉を反芻していると、オードリーが叫んだ。
「柚木さん! あなたは、筆を折っては駄目! どうかそのペンを捨てないで、ずっと持ち続けてください! 出版社を辞めても、編集者を辞めても、書くことをやめないでください! いいじゃないですか。別に邪魔になるものじゃないですよ。胸のなかにしまって、ずっとそれを持ち続けてください。そして、もしも私がーーー」
そのとき、柚木の目の前に電車が滑り込んできた。ホームの隅に立っていた柚木は、突然の風圧で思わず一歩後ずさりしなければならなかった。オードリーの最後の言葉が、立ち消えた。
「柚木さん! 聞こえましたか? 約束ですよ。わかったって言ってください。約束してください!」
「わかったよ、オードリー・・・」
柚木は思わず、了承するしかなかった。
オードリーの近くで、慌ただしく人が動き出している気配が聴こえた。遠くで誰かが彼女の名前を呼んでいる。
「柚木さん、空から星が出てきたって。撮影が再開されるみたいです。ごめんなさい。もっと話していたいのに。映画を観たら、お電話ください。柚木さんの感想が聞きたいから」
柚木には、オードリーが撮影現場に向かって歩き出す姿が見える気がした。月刊キャンプの表紙モデルであったオードリーから、映画女優へと脱皮する、明日23歳になる小鳥美緒の姿だった。
「本当にありがとう。柚木さん、どうかお元気で! 私、柚木さんに観てもらえるように、頑張ります。柚木さんに届くように、頑張ります!」
「ありがとう、オードリー。元気でな、・・・美緒」
柚木の最後の言葉は、彼女に届いたかどうかはわからなかった。
*
数日後、引っ越しの準備を済ませた柚木は、愛車のエスクードで千葉にある小さな街に来ていた。小さな駅前にはアンリこと荻上右京が待っていて、柚木の車を認めると大きく手を振って応えた。
「本当にいいんですか? 柚木さん、この車もらっても」
「もちろんだよ。下取りに出そうと思ったら1円にもならないっていうからさ。それなら君にもらってもらった方がこいつも喜ぶ。もう型も古いし、次の車検では結構な金がかかると思うけど、それでもよければ君に乗ってほしいんだ」
柚木は車のキーと印鑑証明の証書を彼に手渡した。
「わかりました。所有者変更の手続きは、自分で調べてやってみます。オレ、ペーパードライバーですけど、大事にしますから」
荻上右京があらたまって言った。
「柚木さん、仕事お疲れ様でした。いまはどんな気分ですか?」
「正直なところ、意外とすっきりはしていないもんだな。もっとこの仕事がしたかったと、今でも思っているというのが本音だよ。だから、身体を半分置いていくことにしたんだ」
「身体を半分置いていく?」
「そう、これから編集者でなくなった半分の自分は田舎へ帰るけど、半分の自分はこのまま東京に残って編集者を続けていくって訳さ。半分の自分が長野へ帰るおかげで、半分の自分は東京に残ることができるんだ」
「なんだかよくわかんないな」
「いいんだよ。こっちの話だからさ」
「寂しくなりますね。でも、柚木さんなら、いい社長さんになりますよ」
柚木自身、これから待ち受けている試練を想像することは難しかった。編集者だった柚木にとって、実家の仕事は未知である。地域のことも、業界のことも、取引先のことも、社員のことも、会社経営のこともわからない。ひとつひとつ、文字通りゼロからはじめるしかないだろう。
「でも、一人で大丈夫ですか?」
「どうかな。それはわからない」
「だったら、柚木さんにお守りをあげますよ」
荻上右京が取り出したのは、カメラマンの五十嵐が撮影したテスト用のポラロイド写真だった。オードリーが中央でおどけたポーズで笑顔を見せていて、アンリがそのはるか後ろに立っている。
「いい写真だね」
「いい写真でしょ」
柚木が好きな、彼女の笑顔だった。
「それから、オードリーからの伝言です」
荻上右京が思い出したように言葉を続けた。
「あの子が言っていました。この前、柚木さんと電話で話したけど、最後の大事な部分が、聴こえなかったんじゃないかって。だから、オレに伝えてくれって」
どうかそのペンを捨てないで、
ずっと持ち続けてください
出版社を辞めても、編集者を辞めても、
書くことをやめないでください
いいじゃないですか
別に邪魔になるものじゃないですよ
胸のなかにしまって、
ずっとそれを持ち続けてください
そして、
《いつか、柚木さんが私の物語を書いて》
「それ、どういう意味?」
柚木が首を傾げた。あのとき、電車がホームに滑り込んできて、聴くことができなかったオードリーの最後の言葉のようだった。
途切れた最後の言葉は「もしも私がーーー」だった気がする。柚木の記憶違いだろうか。
「彼女はこれから、自分の夢だった女優の人生を歩いていくんだよ。自分で自分の物語を描いていくんじゃないか。もう、僕の出番はないはずだ」
「知りませんよ。有名な女優になったら、柚木さんに自叙伝でも書いてくれっていうことなんですかね。オレにはわかりませんが、でも、たしかに伝えましたからね」
柚木徹は荻上右京と抱擁を交わし、大きく手を振りながら駅の改札をくぐった。そのポケットのなかには、オードリーの笑顔があった。
【次回、エピローグに続く】