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#29 銀色飛鳥歌劇団

落語好きな嶌編集長が率いるアウトドア系月刊誌。30歳までの限られた編集者生活を送っていた柚木は、最後の配属先となるであろう月刊キャンプ編集部で、月刊誌の編集に没頭する。

 柚木がポレポレで待っていると、赤瀬はほどなくやって来た。柚木は赤瀬のために珈琲とモンブランを注文すると、赤瀬に質問をぶつけた。
「赤瀬さんにお聞きしたいことがあります。嶌さんが先ほど、会社を辞めると言い出しました。辞表をすでに会社に提出したと。赤瀬さん、何か知っていることはありませんか?」
「あちゃー、あいつ、とうとうやっちまったか。こっちの迷惑も顧みず、どうしてくれるんだよー、まったく!」
 赤瀬と嶌は古い付き合いだ。嶌が赤瀬に内情を話していたという推察は当たっていた。赤瀬の前に珈琲とモンブランが運ばれてきた。赤瀬が言った。

「編集者なら誰だって、いつかはこんな本を出したいとか、あの有名人と仕事をしたいとか、そういうのを密かに持ってるものでしょ。嶌ちゃんにとっては落語がそう。最近、立川談志師匠の具合が悪いの。もう高座に上がれないっていう噂もある。嶌ちゃんは出版社に入った当時から、立川談志の本を出したいって言い続けてきた。だけど会社は、談志の本はもう星の数ほど出てるし、いまさらうちがやることじゃないってそっぽ向いてる。嶌ちゃんはずっと雑誌畑から異動ができない。このままだと師匠がいなくなっちゃう。嶌ちゃんなりに、焦っているのは感じてた」
 そんな、嶌さんほどの人でも、自分のやりたいことができていなかったというのか。嶌さんは雑誌作りの天才だ。会社が嶌さんを雑誌から解放しない事情はよくわかる。だから嶌さんは、会社を辞めるしかなかったというのか。好きな落語の本を出すために。

「でも、あまりにも唐突過ぎます。若手じゃないんですよ、嶌さんは。嶌さんから仕事を発注されている人間だってたくさんいます。突然辞められたら、皆が路頭に迷うじゃないですか。せめて、せめて自分に前もって言ってくれてもよかったはずです」
 ガシャポンや小峰、外部スタッフとなった吉岡の処遇にまで関わる問題だ。それについては、目の前にいる赤瀬も同様だった。
 ガシャポンにはそれらしいことを前から伝えていたらしい。「徹さんは、聞いていなかったんですか?」と言った彼の言葉を思い出す。どうして、嶌は柚木に前もって言ってくれなかったのだろう。

「言えなかったのよ」
「え?」
「あいつも馬鹿じゃないんだから、前もってユズユズに言っておいた方がいいことくらいはわかってた。でも、言えなかった。それに、ひょっとしたら君に怒られたかったんじゃない?」
「怒られたいって」
「いまの編集部で、嶌ちゃんに意見できるのはユズユズしかいないじゃない。嶌ちゃんだって、自分の行動が無責任なのは十分わかってる。だからユズユズに、めいいっぱい怒って欲しかったんだよ。それで何かが変わる訳じゃないけど、あいつはそうして欲しかったんだ」
 それで事が済むとは思えない。けれど、せめてそのくらいの批判を受ける覚悟はしていたということか。柚木はまだ頭のなかの整理ができてはいなかったが、赤瀬はすっかり納得しているようだった。

「話は変わるけど、銀色飛鳥歌劇団のことだけどね」
 赤瀬が話を続ける。彼女がどこか職業モードになっていることを、柚木は見逃さなかった。
「これはまだ表に出ていないネタなんだけど、ユズユズはシルバーアローについては知っているよね?」
 シルバーアローは最近急成長している音楽レーベルだ。そのくらいは柚木も耳にしたことがある。ヒット曲を量産しているバンドやアーティストが所属していて、いま一番勢いがあるレーベルである。飛ぶ鳥を落とす勢い、と評されている記事をどこかで見た記憶がある。

「実はシルバーアローに所属する女性シンガーやアイドルのほとんどは、銀色飛鳥歌劇団の出身者だということが話題になってるの。歌劇団が活動を休止するなか、在籍していたアーティストや女優の卵たちを二つの事務所が引き取っている。シルバーアローがアーティスト部門、フライングバードがアクトレス部門という具合にね。そして、彼女たちは10代の後半になって、次々にデビューした。彼女たちの共通点が出身歌劇団にあるということに気づいて、銀色飛鳥歌劇団とはなんだったのか、という疑問が残ってる」
 銀色飛鳥の銀色がシルバーアロー、飛鳥がフライングバードということか。
「それなりに規模のあった歌劇団が突然活動を休止したのもおかしいし、そもそも銀色飛鳥が誰なのかもよくわかっていないの。ただ、あそこの出身者が次々とデビューする様を見ると、銀色飛鳥の目利きが飛びぬけていたことはたしかよね」
 赤瀬はモンブランをフォークですくい取り、美味しそうに口にふくんだ。食べながら続ける。

「オードリーちゃんがその一期生だというのなら、月刊キャンプはとんでもない卵を見つけていたことになるわね。でも、ほかの同期たちがすでにデビューして活躍しているのに、あの子だけなんで足踏みしていたんだろ」
 オードリーが出遅れていたのは病気をしていたからだ。でも、それも春から解消される。彼女は、本来いるべき場所に戻るのだから。
「わかりました。ありがとうございます」
 柚木は赤瀬に頭を下げた。

「ちょっと待って。この情報、モンブラン一個では釣り合わない話なんじゃないかしら?」
 赤瀬がこう言ったので、柚木はメニュー表に手を伸ばした。赤瀬が柚木の手を制する。
「そういう意味じゃなくて。いいネタになるわよねってことよ」
「忘れてください。僕が言ったこと、すべて」
 赤瀬が怪訝けげんそうな表情を浮かべた。

「ユズユズ、私はフリーの編集者でありライターよ。記事にできることがあればなんだって記事にしたい。そうやって稼いでいるんだから。嶌ちゃんがいなくなれば、あんたの会社とのパイプも半減する。まぁ、花井ちゃんがまだいるけど、私にとっては大きなマイナス。私に記事を書くなっていう権利は、そもそも君にはないと思うんだけどな」
 どんな記事になるのかはわからない。けれど、デリケートな内容が含まれるのはたしかだ。
「やめてください。お願いします」
「だからぁ、そんな権利は君にはないって言ってるのよ。それとも何? 嶌ちゃんの分まで、君が私に仕事まわしてくれるとでも言ってくれるのかな? それはそれで考えなくもないけど」

 柚木は落ち着いた表情のまま、赤瀬の顔を正面から見据えた。
「先のことは何もお約束できません。ただ、僕は、赤瀬さんと一緒に働けたこの二年間を誇りに思っています。赤瀬美佳という編集者でありライターを、心の底から尊敬しているんです。だから、あなたのことを、嫌いになりたくない」
 柚木にしては迷いのない一言だった。
 赤瀬が溜息をひとつ、ついてみせた。
「私、そういう言い方、嫌いじゃないよ」

 赤瀬が残りのモンブランを平らげてから言った。
「あんた、偉くなんなさい」
「え?」
「最初は正直頼りなかったけど、嶌ちゃんがあんたを指名したのは間違いじゃなかった。言葉で圧かけるのも嶌ちゃん譲り。ずいぶんと図太くなったじゃない。まぁ、二年もあいつの隣にいたんだから、そういうのも自然と身についちゃったんだよね。ユズユズの恋に免じて忘れてあげる。モンブラン、ご馳走さま。またいつかご馳走してね」
 赤瀬はそう言うと店を出て行った。恋か、今さら否定する気力もないな。柚木は赤瀬を見送ると、伝票を手にして立ち上がろうとして、また座り込む。身体が重い、頭のなかも考えることでいっぱいだ。もやのかかったような意識が、判断を遅らせている。一人では無理だ。助けがいる。

 柚木はスマートフォンからショートメールを打った。相手は言わずと知れた、あの男だ。

「カツオ スグカエレ ハハ」

 昭和の電報風にしてみたが、ハハの部分が笑い声だと勘違いされるかもしれない。いたずらだと誤解されてもいけないから、打ち直した。

「カツオ スグカエレ 母」

 発信元から、柚木からのメッセージであることはわかるはずだ。徹くんは母ちゃんみたいだな、と磯野が言っていたのを思い出す。あいつなら何のことだかわからずに、ガシャポンに連絡をするだろう。そして、今こちらで起きている事態を把握して、彼なりの行動をとるに違いない。カナダへ渡ってから数か月が経過していたが、何年も過ごした雑誌のことを忘れているはずはないと予想した。
 これは柚木なりのSOSである。いまの自分には助けが必要だ。柚木がそんなふうに考えるのは、初めてのことだった。



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