見出し画像

【小説】オードリーからの伝言 #エピローグ/流星

 柚木徹が長野に帰ってから、十年の歳月が過ぎた。
 この十年で、出版界を襲った逆風についてはここであらためて述べるまでもない。雑誌や書籍の売上不振はより深刻となり、どこの町にもあった小さな書店は次々と消えていった。その有様は、紙媒体に携わる者にとっては惨状と言えるだろう。

 柚木が濃密な二年半を過ごした『月刊キャンプ』は、時代の風雪を浴びて月刊誌ではなくなったが、辛うじて季刊誌として存続している。編集部の住所は版元である出版社にはなく、再び編集プロダクションとして外部委託に変わったようだ。雑誌名は『月刊キャンプ』から『CAMP STYLE』となり、奥付の編集長の欄には小林健一の名前がある。あまり馴染みがないかもしれないが、かつてガシャポンと呼ばれていた男のことである。副編集長には小峰淳。小峰の娘はもうじき中学生になるだろうか。

 吉岡信彦はフリーの編集者として活動している。『CAMP STYLE』を外部から支える貴重な戦力となっているのはもちろん、経済雑誌や新聞社のウェブページにレギュラーをもっている。妻との間には一男を授かり、子育てや教育関連の仕事にも幅を広げた。

 カツオこと磯野克典は、数年前から北海道に住んでいる。カナダでのワーキングホリデーで知り会った日本人女性と結婚し、彼女の生まれ故郷である北海道に移り住んだ。積丹しゃこたん半島の小さな町で山を買ったという。当面は補助金の恩恵を受けて山の管理をするのが仕事だそうだ。森のなかでのキャンプツアーやイベントを企画しながら、木を切って薪を作ったり、クラフト工芸に精を出しているらしい。柚木はいつか、磯野夫婦を訪ねる日を夢見ている。

 株式会社難破船。嶌勇作が出版社から独立して立ち上げた個人会社の名前である。自分の会社に「難破船」と名付ける人間がいるだろうか。嶌独特のネーミングセンスには脱帽するしかない。
 東日本大震災が起きた同じ年の11月、立川談志が逝去したことにより、師匠の本を出したいという嶌の希望は叶えられなかった。だが、独立後の嶌が編集した『希代の噺家48人』や『いま、この噺家がおもしれぇ!』といった落語本はスマッシュヒットを飛ばし、嶌自身が上梓した『おととい来やがれ』は、21人抜きで真打に昇進した若手噺家の自叙伝として話題をさらった。古巣である出版社からオファーを受けて、渋々次回作の執筆に取り組んでいると聞いている。

 アンリこと荻上右京は、ピースボートの乗組員として世界を回る旅を続けている。3か月をかけて世界を一周するこの日本船籍の船は、乗客乗員合わせて1500人を乗せる巨大客船だ。乗客の平均年齢は72歳と高齢で、最近の乗客の半数以上は外国籍の客だという。
 荻上はキッチン、ホール、バーなどを担当している。持前のサービス精神を存分に発揮し、その抜群のルックスもあって乗客たちのアイドルになっている。年に三回の航海にすべて乗船しており、日常のほとんどの時間を海上で過ごしている。

 長野に帰った柚木徹は、柚木観光物産の専務として奮闘したが、辛酸をなめた十年であったことは否めない。会社の業績は厳しく、筆舌に尽くしがたい試練を経験した。当初「東京に身体を半分置いていく」と語っていた柚木だったが、とても半身でできる状況ではなかった。だが、柚木の地道な努力の甲斐あって、小さな会社は持ち直しつつある。地元で結婚した妻と子供の存在が彼を支えた。

 オードリーこと小鳥美緒は、『迷える星たち/Lost Stars』の映画デビューから芸能活動を本格的にスタートした。本作の難しい役柄をこなした演技力は高く評価され、遅れてきた若手女優として注目を集めた。その後、ドラマや映画への出演を複数果たしたが、いつしか名前を聞くことがなくなっていた。

 彼女について語ることは別の機会に譲ることにする。熟慮の末に、と言うこともできるが、実際は葛藤に葛藤を重ねたうえでの結論だ。未だに気持ちを整理できていなかったことを痛感する。だが、柚木が「オードリーからの伝言」に真摯に応えようと取り組んでいることは確かだ。続きはいつか、そう遠くない時期に書くことになるだろう。


「オードリー、いつまでこんな所にいるんだい? 君に風邪をひかれたら僕らが困る」
 芝生に寝転んで夜空を見上げていたオードリーに、柚木は翌日の撮影のために用意していた上着を差し出した。
「ごめんなさい、柚木さん。でも、夜空があまりにもきれいなので」

 柚木たちが撮影のために幾度となく訪れた軽井沢のキャンプ場。あれはたしか、一年目の夏の夜のことだった。
 雲ひとつない夜空に無数の星が瞬いていて、それはまさに銀河とか綺羅星きらぼしなどと呼ぶのにふさわしい光景だった。星が降るような、という使い古された表現があるが、それがぴったりはまるほど、それは見事な満天の星空だった。

「私、こーんなきれいな星空を見るのは生まれて初めてなんです。本当はこんなに空にはお星様があるんだって、二十年も生きてきたのに、知らなかったなぁーってしみじみ思っていたんですよ」
 そのとき、小鳥美緒はちょうど二十歳。柚木徹は二十七歳の夏を迎えていた。

「そうだね、今夜の星空は格別だ。でも、僕は長野の生まれだから、このくらいの星空は珍しくないんだ」
「え、そうなんですか? いつもこんなに星が見えてたの?」
「うん。正直、何も珍しいものがない所だけど、星空だけはきれいに見えた。僕の故郷は最近『日本一星空がきれいな村』として売り出してるくらいだからね」
「わぁ、すてき」

 オードリーにそう言われると、何か誇らしい気分になった。暗闇に目が慣れてくると、星はまた数を増したようだった。
 まだいたのか。
 数億光年も離れているであろう星に向かって独り言を言って、柚木は首をすくめてから空を仰ぎ見る。周囲には風もなく静まり返っていて、まるで世界中のすべての人が眠りについたような錯覚を覚えた。全身から吐息が漏れる。柚木は言った。
「オードリー。さっきの言葉、訂正するよ。今夜の星空は最高だ。僕が見てきた星空のなかでも、一番だよ」
 吸い込まれそうな夏の星空を、二人で眺めていた。

「柚木さん、流れ星って見たことあります?」
「もちろん」
「いいなぁ。どうしたら見られるんですか?」
「コツがあるんだよ。実際、夜空に星は意外とたくさん流れているんだ。なんとか流星群とかが現れたとき以外でもね。流れ星っていうのは、宇宙の塵や隕石が燃える現象だから。でも、それはほんとにわずかな一瞬だから、みんな見逃してしまうのさ」
 見つけ方を教えてください、とオードリーは真面目にせがんだ。

「いいかい、夜空を全部見ようとしては駄目だよ。どこかの一角に絞って、ずっとそこを見つめているんだ。30分とか1時間とか見つめていたら、そこに星が流れるかもしれない。探すんじゃなくて、待つんだ。絶対とは言えないけれど、それが一番たしかな流れ星を見つける方法なんだ」
「お願いごとはどうしたらいいんですか?」
「星が流れるのを見つけてから願いごとをしても無理だよ、間に合わない。だから、どこかの一角をずっと見つめて、ずーっと願い事を繰り返しながら待つんだよ。三回言うことは不可能だから、せめて一回が流れ星と重なればよしとしよう」

 はい、やってみます。とオードリーはしばらく黙って夜空を見つめていた。彼女が叶えたい願いごとといえば、あのことに違いなかった。しばらくして言った。

「柚木さん。当たり前だけど、私が知らないこと、見たことないこと、いっぱいありますよね。私は、たくさんのことを知りたいし、見てみたい。私はこの先、どこまで行けるんだろうって思うと、なんかわくわくするんです」
 柚木は躊躇ちゅうちょなく答えた。
「君なら、どこまでだって行けるさ」

 あのとき、オードリーは流れ星を見つけられたのだろうか。
 願いごとを言えたのだろうか。

 彼女のことはなんでも覚えていたつもりだったのに、そのことだけは思い出せない。子供のように無防備な純真さがある一方、奥には熱いものを隠し持っている人だった。

 夢の舞台を目掛けて駆け上がるオードリーと、舞台から降りることを覚悟していた柚木。昇る者と降りる者が、同じ場所で交差して、しばし佇んだ。あの二年間、二人は紛れもなく、同じ時間を共有していた。
 いつだったか、二人で話したことを思い出す。

 その人を覚えている人がいる限り、 
 誰かの記憶に残っている限り、
 その人の存在はなくならない
 僕はそう信じてる

【終】

読んでいただき、ありがとうございました。
続きはいつかまた、書きたいと思います。


【第1部】
1 編集部員集結
2 五つの方針
3 絆のはじまり
4 リニューアル創刊
5 表紙モデル
6 オードリー
7 編集者にとって言葉はすべてだ
8 編集部の助っ人
9 レインマンのような
10 しばしの宴
11 バイトを育てろ
12 銀座の夜

【第2部】
13 21歳パパになる
14 書くということ
15 『Close to You』
16 海を行く帆船
17 マネキンの憂鬱
18 二年目になって見えてきたもの
19 アメリカ大陸横断ツアー
20 販売会議/定期購読を倍増せよ
21 運命の8月号
22 Ray of Sunshine

【第3部】
23 Lost Stars
24 磯野、退職する
25 焚火の魔力
26 フライングバード
27 彼女への想い
28 嶌編集長、辞職する
29 銀色飛鳥歌劇団
30 カツオ、復帰する
31 Anchor Away
32 オードリーへの伝言
33 ポケットのなかの笑顔
34 エピローグ/流星




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集