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#26 フライングバード
落語好きな嶌編集長が率いるアウトドア系月刊誌。30歳までの限られた編集者生活を送っていた柚木は、最後の配属先となるであろう月刊キャンプ編集部で、月刊誌の編集に没頭する。
「このたびは映画出演決定、おめでとうございます」
柚木は喫茶ポレポレで男と向かい合っていた。
「ありがとうございます。月刊キャンプ編集部の皆様には、うちの小鳥美緒が大変お世話になっております。美緒からは、担当の柚木さんには特にお世話になっており、柚木さんはとても紳士な方だと聞いております」
藤井と名乗った男の名刺には、「株式会社フライングバード 代表取締役社長」という肩書があった。フライングバードはオードリーが所属するモデル事務所の名前だ。男の年齢は50代前半だろうか。物腰がとにかくやわらかい。若いころはタレントのマネージャーをしていたというから、その癖が抜けないのだろう。海千山千の現場を経験し、叩き上げで社長になったような感がある。業界のイメージほど派手ではない。清潔感はあるが、苦労人と言えるかもしれない風貌だ。柚木には想像もできない世界を、この男はいかにくぐり抜けてきたのだろうか。
藤井社長は当初、編集長の嶌にアポを求めたが、嶌は「コトリちゃんのことはすべて柚木に任せている」と言って柚木が面会することになったのだ。相手が事務所の社長だとは知らされていなかった柚木は、ポレポレで名刺を交換したときには少しうろたえたところがあった。だが、藤井の丁寧な物言いに、それは危惧であったと感じはじめていた。
それにしても「紳士」とはたいへん古風な言い回しである。彼女から出た言葉ではないだろう。藤井自身の認識に違いない。しばらくは彼の雑談に応える。フライングバードは映画やドラマ制作のためのタレントの発掘と育成が主な仕事で、収益のほとんどは一部の上位タレントからもたらされている。いまやドラマの出演者として欠かせない有名タレントの名前が次々と出てきた。一方、タレント育成の手段の一環として、モデル斡旋の業務を行っているということだ。フライングバードの本業はモデル事務所ではなく、タレント事務所なのだな、と柚木は理解した。
「今日は折り入って柚木さんにご相談させていただきたいと思い、お忙しいのにかかわらず、このようなお時間をいただきました。重ねてお礼申し上げます」
藤井は本題に入るために、目の前の珈琲を一口飲んだ。
「実は、映画出演が決まったことにより、この春から小鳥美緒のマネージングがフェーズ2へと移行いたします。今までは無名のモデル扱いでしたが、これからは事務所としても美緒のサポートに尽力していく所存です」
「そうですか。いよいよですね」
女優業が本格的にスタートするということだ。オードリーの夢が叶えられていくのを、間近で見ていられるのは柚木にとって本当に嬉しい。フェーズ2とは何を意味しているのか不明だが、今までのように助手席に彼女を乗せて走ることはできないだろう。タレントになれば、車での移動はすべて後部座席でなければならないからだ。直接の電話も無理かもしれない。連絡はすべて事務所かマネージャーを通すことを要求されそうだ。それも致し方ないだろう。
一方で、雑誌としては表紙モデルの知名度が上がれば箔が付く。しかも、月刊キャンプと小鳥美緒は、彼女が有名になる前からの蜜月の関係なのだ。まさに理想的な展開に違いない。
「柚木さんもお気づきかと思いますが、美緒はもともとモデル業を主としていた訳ではございません。女優になるためのステップとして、モデルを経験していたというのが実態です。しかし、これまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。ときには、あの笑顔を失いかけたときもありました」
その話はオードリーから聞いたことがあった。芸能界にデビューすることが夢だった彼女は、事務所に入ってから演技の仕事ができるものと考えていた。だが、現実はそう甘くなく、オーディションを受けては落ちて、なかなか役がもらえない。エキストラで現場の場数を踏みながらも、すっかり自信を無くしていたという。オーディションで仕事がとれない以上は仕事がない。実際、生活もしなければならないから、オードリーは叔父が経営する喫茶店で働きはじめた。そんなとき、ある人から言われたのだ。
「君は最短距離を走ろうとしている。演技の稽古や仕事には熱心だが、それ以外のものを軽んじているのではないか。演技以外の仕事をすることも、それと同じくらい大切なんだ。だから、モデルもやった方がいいし、喫茶店の仕事だってプライドをもってやるべきだ。不思議かもしれないけれど、そういう人にだけ、あるとき幸運が舞い降りる。選ぶ側からしたら、目の前に見えているものだけがすべてじゃない。見えないところが大事なんだから」
見えている部分だけを人は見ていない。
見えないところでの努力こそが人に伝わり、心に響く。
この助言を聞いたオードリーは、真摯に反省をする。喫茶店での仕事を、心のどこかで恥ずかしいと感じていた。だから撮影の現場で出会った人から、普段は何をやっているの? と訊かれるのが嫌だったという。
「そんな自分では駄目だと気づいたんです。それからは、喫茶店のお仕事も一生懸命にやったし、モデルのオーディションにも足を運ぶようになりました」
そうしたらどうなったと思います? とオードリーはいつものいたずらっ子のような笑顔で言ったのだ。
「柚木さんに会えました!」
柚木の目の前にいるこの藤井社長が助言の主かはわからない。だが、おそらくそうだろうと柚木には思えた。藤井の言葉の節々には、経験に裏打ちされた含蓄が感じられるからだ。藤井が続けた。
「いま美緒は、自信と笑顔を取り戻しました。それは彼女が引き寄せたものだと思っています。私たちはタレントやモデルのメンタルをケアし、誠心誠意ファローをします。ですが、心のもちようを変えるのは容易なことではありません」
オードリーがあの笑顔を失っていた時期があったというのは信じられない思いだった。彼女の笑顔は、生まれたときから授けられたもののように感じていたからだ。あの白い肌と大きな瞳と同様に。
「話がそれてしまって申し訳ありません。柚木さんには申し上げにくいのですが、春から小鳥美緒は女優業に専念させたいと考えています。モデル業との両立は難しくなります。申し訳ありませんが、月刊キャンプでのお仕事は継続できないとお考えください」
いきなりの藤井からの通達に、柚木は唖然とするしかなかった。寝耳に水とはこのことだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。それは困ります」
柚木は心のなかで「しまった」と思わずにはいられなかった。彼女との契約は一年ごとにしており、三年目の契約がまだされていない。二年目の契約のスタートはたしか5月号からだった。すでに4月号の撮影は昨年の夏に前撮りしている。だから、二年目の契約の撮影はすべて完了している状況にあるのだ。柚木にしては迂闊としかいえない。事務所が契約を更新しないと言えば、こちら側にはなす術がない。
「彼女は、美緒さんはどう言っているんですか? うちの表紙モデルを辞めることを了承しているんですか?」
「いいえ。美緒にはまだ伝えておりません。事情があって、先に柚木さんにご相談にあがった次第です」
「僕に相談されても困ります。うちの雑誌は来年が勝負なんです。彼女はすでにうちの表紙そのものです。映画出演が決まって、読者も喜んでいます。これからじゃないですか! まさにこれから、うちには彼女の力が必要なんです!」
藤井は大きくなった柚木の声を聞いても、表情を変えなかった。柚木の反論をすべて想定しているかのような顔だった。
「映画撮影が始まれば、美緒の拘束時間はかなりのものになります。その合間をぬって雑誌の撮影をすることは容易ではありません。万一の場合には穴を開けることにもなりかねない。そのような事態が想定できる以上、契約を続けることはお互いにリスクがともないます」
表紙の撮影は天候やロケ場所などの制約が多い。編集部だって忙しい。いままでは二人のモデルのスケジュールを抑えることは容易だった。たしかに、そこに問題が発生すると全体に支障をきたすかもしれない。
どうにかこの男に対抗することはできないものか。オードリーにはまだ話がいっていないと藤井は言った。そこにしか活路は見いだせない気がした。彼女ならこの仕事を続けたいと言ってくれるのではないか。スケジュールなどのやりくりは、柚木がどうにかすればいい。
いや、夢にまで見た映画の仕事が目の前にあるのだ。それに集中したいと思うのかもしれない。どうだろう、確信がもてない。だが、柚木は賭けに出るしかなかった。
「彼女の、小鳥美緒さんの意見を聞かせてください。彼女なら、うちの仕事を続けたいと言ってくれるはずです。それとも、タレントの意向は無視するんですか? 彼女はタレントの前に人間です。本人にも仕事を選ぶ権利があるはずです」
藤井は痛いところを突かれたような顔を一瞬見せたが、黙ってまた珈琲を一口飲んだ。
「それをしたくないために、柚木さんにお願いに参ったのです。あの子に選ばせたくはない。彼女の性格はよく知っています。私からの話も聞き入れてはもらえないでしょう。ですから柚木さんから、契約を延長しない旨をご通達いただきたいのです」
「そんな馬鹿な! なぜです? こちらに彼女との契約を終わりにしたい理由はありません。なぜこちらから契約を延長しないと、彼女に言わなければならないのですか!」
嶌ならなんと言うだろうか? 絶対にコトリを離すな、と言うのではないか。この男が話をすべきなのは編集長の嶌だ。自分では荷が勝ちすぎている。一人でこの男と対峙するのは危険だ。柚木がそう感じたときだった。
「契約を終了する理由は、柚木さん、あなた自身にもあります」
唐突な一言を藤井は柚木に放った。
「僕に? どうしてですか?」
柚木にはなんのことかわからなかった。
一刻も早くこの男との対峙を終わりにし、嶌に助けを求めなければならないと思った。