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#27 彼女への想い
落語好きな嶌編集長が率いるアウトドア系月刊誌。30歳までの限られた編集者生活を送っていた柚木は、最後の配属先となるであろう月刊キャンプ編集部で、月刊誌の編集に没頭する。
「契約を終了する理由は、柚木さん、あなた自身にもあります」
藤井からの思いもよらぬ一言に、柚木は声を失った。
頭のなかをさまざまな考えが思いめぐる。まさか、藤井は柚木と小鳥美緒が恋仲であると勘違いしているのではないか。それならば、こちらにも主張できることがある。
「藤井社長。何か誤解されていらっしゃるのではありませんか? 私と美緒さんとは、仕事上の関係でしかありません。撮影以外で会ったことは、ないはずです」
ここは大切な場面だ。藤井の誤解を全力で解かなければならない。高速で記憶を呼び覚ましながら、慎重に柚木は言葉を選んだ。
「あ、いえ、撮影以外にも会ったことは、ありました。たしか、彼女が編集部を訪ねてきて、私たちに手作りのクッキーを差し入れてくれたことがあります。その流れで、編集部の打ち上げに参加してくれたことも、ありました。ですが、それには編集部員が複数で関わっています」
藤井は、先ほど名刺交換をする際に柚木の左手を確認する素振りを見せていた。柚木の薬指に指輪はない。自分が独身であることが思わぬ誤解を生みだしている。
「あと、銀座に食事に行ったこともありましたが、それも男性モデルと一緒でしたので、三人です。あれは、二年目の契約をする旨を伝えるための会合でした」
銀座の話は少しまずいかもしれない。必然性のない会合だった。だが、彼女から報告が上がっているとしたら、話さないことの方がリスクだ。正直に話した方がいいだろうと考えた。
「私は実際、彼女がどこに住んでいるのかも知りません。それに、私は彼女に触れたことすらない。これは誓ってもいい。断言できます」
そうだ。柚木はオードリーに触れたことは一度もない。彼女の体温を知らない。間近で彼女を見届けてきたが、それだけの関係のはずだった。
「承知しています。ですから、柚木さんを『紳士』である、とお伝えしました。その点に疑いは一切もっておりません」
だったら。何が問題だと言うのだろう。
「お二人はお誕生日が一緒だそうですね」
「え、ええ。偶然ですが、10月1日、年齢はたしか7つも違っているはずです。ですが、私は彼女に誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントだって贈ったことはありません。もちろん、それらの日を一緒に過ごしたこともない。まったくの誤解です」
「本当に、何も贈られていませんか?」
「はい。何も」
藤井はしばらく次の言葉を口にするのをためらっているようだった。だが、意を決したように続けて言った。
「言葉を、贈られたんじゃありませんか?」
「ことば?」
柚木は自身の潔白を証明するために必死だった。藤井は何を言っているのか。柚木がオードリーに贈った言葉だと? 言葉に、一体どんな意味があるというのだ。
「あっ」
柚木の脳裏に、飛行機から見た朝の光がよみがえった。
Ray of Sunshine
藤井が指摘しているのはあれなのか。そうだ、あれに違いない。
「あれは、なんというか、彼女にせがまれて・・・」
君に気に入ってもらえるような
君にぴったりの言葉を
ずっと探していたんだ
ずーっと考えていて
アメリカから帰ってくる航空機の中で
ようやくひらめいたんだ
『周りを太陽のように明るく照らす人』
という意味だよ
君にぴったりだと思うんだ
どう、気に入ってくれたかい?
「あ、あれは・・・」
柚木には返す言葉が見つからなかった。とても誤解されやすい言葉だ。だが、本当に誤解なのか。オードリーのことを、特別に思っていることは否定できない。特別どころか、誰よりも、何よりも、彼女のことが、大切だ。
たとえば、そう、
オードリーの代わりに僕が死んで
君が助かるというのならどうだろう
僕の分も、君が生きていける
そうしたら僕はどんなに本望だろう
焚火を見つめながら吐露した言葉もよみがえる。あのとき、辛うじて吐き出さずに踏みとどまった言葉が、あった。
でも、君がそばにいてくれたら
それだけでいい
「私は、あなたを責めているつもりはありません。こんな言い方をするべきじゃなかった。卑怯な言い方をしてしまった。申し訳ありません」
意気消沈した柚木を見るに見かねたのか、藤井が柚木に頭を下げた。彼が態度を軟化させたのがわかった。
「あなたには、本当のことをお話しいたします」
藤井は言葉を続けた。
「美緒は『銀色飛鳥歌劇団』の一期生の一人です。銀色飛鳥歌劇団は、現在は事実上休止した状態ですが、13歳から18歳までの少女を集めた歌劇団でした。卒業した劇団員の受け皿としてフライングバードが設立され、縁あって私が代表を務めております」
ぎんいろあすかかげきだん?
オードリーの履歴書にあった、彼女の出身の歌劇団の名前のようだ。柚木にとっては初めて耳にする名前だ。
「本来でしたら、小鳥美緒は歌劇団の中心メンバーでした。才能に恵まれ、将来も有望だった。ですが、突然、病に倒れた」
そこまで話して、藤井は柚木の顔色が変わらないことに違和感を覚えたようだった。
「ご存じだった、ようですね」
柚木は小さくうなづく。
焚火を前にして、オードリーが語ってくれたことだ。藤井はいかにも驚いたような顔をした。彼女が病気だったことを、柚木が知っているとは思っていなかったようだ。藤井は気を取り直して話を続けた。
「彼女を失ったと思いました。私どもにとって、大変なショックでした」
藤井が初めて、苦悩の表情を浮かべた。それは、子を思う親のような表情だった。駆け引きすることなく、本心を話しているように感じられた。
「ですが、彼女は戻ってきた。奇跡だと思いました。強い精神力と神のご加護、としか言えません。ときどきいるのです。神に愛されたとしか思えないような、特別な才能と星回りをもった少女が。歌劇団が消滅寸前だったこともあり、私のフライングバードが引き取りました。ですが、以前のように歌い踊ることは難しい。女優業に絞るべきだと判断し、彼女も納得してくれました。しかし、女優業もきつい仕事であることに変わりはありません。いつまでできるかもわからない」
「そんな、彼女はすっかり治ったと言っていました。違うのですか?」
「私は医者ではないので、そこはわかりません。医者もあいまいなことしか言わない。私としては、決して無理はさせたくない。身体がきつくなったら女優業も引退すべきだと考えています。大切なのは彼女の人生です。タレントとしてのキャリアではありません」
柚木は先ほど、タレントの意向は無視するのですか、と藤井に投げつけた言葉を自分で恥じた。藤井は、彼女をタレントとしてではなく、人として大切にしている。
「けれど、本人は女優になることを夢見ています。当然です。才能があるのですから。私としては、それはぜひ叶えてやりたい。チャンスはそう巡ってきてはくれません。ですから、春からは女優業に専念させてやりたい。このことを、柚木さんなら理解していただけるのではないでしょうか」
柚木には、それまでの回りくどかった藤井の話の真意が初めて理解できた。オードリーが彼女自身の体調を理由に、月刊キャンプの表紙モデルを辞退することは考えられない。藤井社長が助言しても変わらないだろう。けれど、柚木が契約を延長しないと伝えれば収まりがつく。彼女に、なんと言えばいいかはわからない。嶌にも、なんと言えばいいかわからない。
けれど、柚木にはしなければならない仕事のように思えた。いや、これができるのは柚木しかいないのだ。
「わかりました。私が、なんとかしてみます」
「ありがとうございます。柚木さんにご迷惑をおかけして申し訳ありません。会社でのお立場もあるでしょう。無理を言っているのはこちらです。このことで、柚木さんのお立場が悪くなるのではないかということが心配でなりません」
「それについては心配に及びません。私はもうすぐ、ここからいなくなる人間です。会社にも、上司にもまだ伝えていませんが、あと半年もしたら退職するつもりです。東京から出ていく人間なのです。ですから、私のことは心配いりません」
「そのことを、美緒は知っているのですか?」
「はい」
柚木はまたぎくりとした。誰にも話したことのない秘密を、自分は彼女にだけ話している。彼女もまた、自分の病気のことを柚木に話した。藤井の懸念は、ある意味見事に当たっている。
柚木は藤井と別れて店の外に出ると、思い出したようにスマホから電話をかけた。
「はーい。赤瀬ちゃんでーす。ユズユズ、どうしたの? なんか用?」
電話の相手はフリーライターの赤瀬美佳だ。いつもどおりのハスキーで明るい声なのだが、今日は妙に耳に痛い。
「赤瀬さん、銀色飛鳥歌劇団って知っていますか?」
赤瀬は週刊誌への執筆も手掛けているように、かなりの情報通だ。芸能やワイドショーネタにもことさら詳しい。
「なんでユズユズからそのワードが出てくんのよ?」
赤瀬の声色が変わった。だが、柚木にはそれを気にしている余裕はなかった。
「実は、オードリーがその劇団の一期生らしいんです。赤瀬さんなら、何か知っているんじゃないかと思って」
「なんと、そういうことか。あのオードリーちゃんがね。あ、打ち合わせ始まっちゃうから、詳細は後ほど。こっちからかけ直すから」
赤瀬の反応が気になる。この劇団に何かあるのか?
柚木が詮索をはじめる前に、スマホが振動した。相手は編集部の鹿野だった。
「柚木さん、大変です! 嶌さんが、会社を辞めると言っています。至急、編集部に戻ってください。いま、どこにいるんですか?」
柚木は舌打ちをして会社へ踵を返した。
なんだ、今日は厄日か。
どうして嶌が会社を辞めると言い出さなければならない? 鹿野の奴の勘違いではないのか? 藤井の話だけで頭がいっぱいなのに、柚木は続けざまの非常事態に困惑を隠せなかった。