#30 カツオ、復帰する
花井に呼ばれて柚木が会議室に入ったのは、嶌が辞職すると言ってひと悶着があった日から1週間後のことだった。花井は今回の人事で女性雑誌編集長から雑誌出版部本部長へと昇進していた。すべての雑誌を統括する立場であり、柚木にとっては直属の上司である嶌のその上という立場になった。
「柚木、ヤマドリがいろいろと迷惑をかけたな」
嶌と同期である花井は、嶌のことをこう呼んでいた。
「嶌さんの後任の編集長は、目途がついているんですか?」
「それだがな。お前にだけ言うが、実はかなり苦戦している。あまりにも突然の事態だからな。何人か目星はつけているんだが、まだお前に伝えられそうなことは何もない」
嶌の後任となると人選は難しい。月刊キャンプの雑誌としてのポテンシャルや将来性はともかく、前任の嶌と比べられることは誰にとっても荷が重いはずだ。しかも、嶌は現体制の維持を自分の辞職とバーターで会社に要求したという。ガシャポンや小峰の雇用継続はもちろん、外部スタッフの吉岡やデザイナーについてまでも継続が条件だというのだ。これは柚木も後になって聞かされたことであった。
「たしかに、やりずらい状況だと思います」
新たに赴任する編集長としては、自分以外はすべて固まっている状況にある。いわば完全アウェーのなかに入ってきて、メンバーの入替なしに指揮をとることを求められる訳だ。一人で「チーム嶌」のなかに入って仕事をすることは、容易なことではない。へたをすれば誰も首を縦に振らないかもしれない。
「吉岡さんに編集長をお願いすることはできないんでしょうか?」
柚木が言った。社内から人材を出すことが難しければ、前副編集長の吉岡が指揮をとることが賢明な気がしていた。これは柚木にとって一番の希望でもあった。
「それはすでに当たっている。丁重に断れたさ」
柚木はやはりな、と肩を落とした。
「僕ら編集部員としては、嶌さんの方針を頑なに維持しようと考えている訳ではありません。もちろん、嶌さんのスピリットは引き継ぎますが、雑誌の方針やスタイルが変化することは当然だと理解しています。ですから、新しい編集長に合わせる準備があることを、ぜひお伝えください」
柚木が言えることはこのぐらいしかなかった。
「いまは3月号の入稿の最中らしいな。表紙のストックはいつまであるんだ?」
「次の4月号まではすでに撮影が終わっています」
アウトドアシーズンのスタートである4月号にとって、春らしい緑のある表紙写真は不可欠だ。それを3月に撮影することは難しいため、前年の夏にすでに前撮りしてあった。これがオードリーとアンリの最後の表紙となるだろう。花井が言った。
「5月号以降の表紙については白紙のままにしてくれ。新しい編集長の方針次第ということだ。表紙の女の子が映画デビューすると言っていたな。残念だが、継続は難しい」
「わかっています」
オードリーとの契約延長が難しいことを、フライングバードの藤井社長から告げられていたが、嶌の退職によって雑誌の方針転換も不可欠となった。オードリーとアンリの表紙は、チーム嶌の象徴でもある。だからこそ、継続することは不可能な状況にあった。
「それでお前に相談なんだが、現状では副編集長のポストが空席になっている。俺としてはお前に副編集長をやってもらいたいと考えている。まぁ、お前も知ってのとおり、副編集長というのは名前だけの肩書にすぎない訳だが、ヤマドリが勝手をした分、お前への負担は増える一方だ。そのための報奨だと思ってくれていい」
柚木はその話を聞いて下を向くしかなかった。これ以上、黙っている訳にはいかないだろう。
「花井本部長にお伝えしなければならないことがあります」
柚木があらたまった顔をしたので、花井が柚木を不思議そうに見た。
「おい、柚木。なんだその神妙な顔は? まさか、お前・・・」
柚木は自分も家庭の事情で退職する意向であることを花井に告げた。嶌が先に退職を決めたことによって、編集部での柚木の立場がより重要になっていることは認識していた。だが、柚木のなかでも決心が固まりつつあった。
退職を決めた嶌が、後日こう言っていた。
「落語には『結界』というものがある。噺家が座布団に座って扇子を膝の前に置いて、客に頭を下げるだろ。そして扇子を前から脇に置く。あのとき、噺家と客との間に『結界』が張られるんだ。演者と客、高座と客席とを区切るわけだ。それは神聖な儀式であり、聖域の主張でもある訳だーーー」
嶌が自分から落語の話をするのは珍しかった。
「俺はずいぶんと長い間、客席から高座を眺めてきたが、今回、その結界に踏み入ることに決めたのよ。そのためには、どこどこの出版社だとか社員だとかいう肩書はもう意味がない。一人の噺家として身体ひとつで勝負してる奴らと対等にやりあうためには、こっちも裸になるしかねぇんだよ」
嶌は落語という結界のなかに踏み込もうとしている。柚木は、出版界という結界の外に出ようとしている。それぞれの世界を尊重し、敬意を払えば払うほど、その結界を超えるときにはそれなりの覚悟が必要だ。嶌にはそれがあるということを、柚木ははっきり理解できた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。しかし、自分の編集者生活は30歳までと決めていました。こんな事態になりましたが、その方針に変更はありません。長くても9月末まで、自分が会社に勤められるのはそれしか時間がないんです。もちろん、残りの時間をいい加減に過ごすつもりはありません。自分自身の編集者としての総まとめもしたいですし、この雑誌や仲間のためにもいいものを残していきたい。全力を尽くすことをお約束します」
「まじかよ」
今度は花井が大きな溜息をつく番だった。
いまになって、嶌の気持ちがよくわかる。柚木自身が会社を辞めるのも、そのタイミングも、自分の都合でしかない。どんな辞め方をしても、いつ辞めても、多かれ少なかれ周りに迷惑はかかるのだ。にも拘わらず、決断しなければならないという焦燥が心の奥から湧いてくる。そしていつか、それが限界を超えるのだ。嶌にとってそれはあの日だった。柚木にとってはいまなのだろう。柚木の場合、それを自分自身が望んでいないということだけが違うのだが。
その夜、柚木は一人で編集部に残っていた。暗くなったフロアに、柚木の所だけ灯りがついている。
本部長である花井に退職の意向を伝えた以上、ガシャポンや鹿野ら編集部の面々にも話をしなければならなかった。だが、そちらはまだ最大で6カ月の猶予がある。間近に迫っているのは、オードリーとアンリに契約の終了を伝えなければならないことだ。彼らから先に次の撮影のスケジュールを尋ねられるようであってはならない。そう考えると、一刻も早くこちらから伝える必要があった。
だが、それはいまの柚木にとって、もっとも気が重い仕事でもあった。
柚木が手にしていたのは、昨年の夏に撮影した4月号用の表紙写真である。
オードリーとアンリは、広い河原を背景に白いデッキチェアに腰を下ろして談笑している。傍らにはオレンジ色が映えるタープが風になびいている。アンリのウインドブレーカーはタープと同じオレンジ色だ。オードリーはチノパンに青い長袖のシャツを着ていて、頭には赤いバンダナを巻いている。
暑い日だった。夕暮れになっても気温が下がり切らない、残暑の厳しい9月のことだ。二人はそのなかで春物の長袖の衣装をまとい、いかにも春がやってきたという風情を醸し出している。
二人とも、演技とは思えない自然な笑顔をしていた。演技ではない。実際に笑っているのだ。オードリーは口に手を当てて、大笑いしている。あのとき、何の話をして笑っていたのだろうか? オードリーとアンリの手前で、小峰がレフ板を当てていて、三人でなにか話していたのだ。
「小峰さん、赤ちゃんの名前決めました?」
「あ、そうそう。小峰っちの赤ちゃんて、男の子、女の子どっちだっけ?」
「えへへ、女の子なんです」
「えー、女の子ですって。名前は親からの最初のプレゼントなんですよ。素敵な名前を付けてあげてくださいね」
「峰子はどうでしょう?」
「み、ミネコ?」
「小峰峰子、上から読んでも下から読んでも小峰峰子ってどうですかね?」
「えー、どういうこと? アンリくん、わかる?」
「冗談だよね、小峰っち。たしか杏ちゃんにするって言ってなかった?」
「ええー、冗談だったの!」
「小峰峰子で騙される奴がいるとは思わなかったな。オードリー、マジな顔してたよね?」
「柚木さーん、小峰さんが冗談言ってますよー。私、騙されちゃいましたよぉー」
そのとき、廊下の先のエレベーターが到着の報せを告げた。静まり返ったフロアには、もう柚木しか残っていないはずだった。柚木が振り返る前に、懐かしい声が言った。
「徹夜するのは身体に悪いし、実際は効率が悪いって知ってた?」
柚木が振り返ると、そこにはカツオこと磯野克典が、大きなスーツケースの傍らに立っていた。厚手のダウンジャケットを着ているからか、身体がひと回り大きくなったように見える。鼻の下から顎にかけて黒い髭が伸びており、入稿前に徹夜して髭を伸ばしていたあの頃と何も変わらない。
柚木は、突然のことでなにを言えばいいのかわからなかった。だが、すぐに思い当たる。こんなとき、日本中のどこでだろうと、使われる最適な言葉はたったひとつしかない。柚木は磯野に駆け寄り、抱きしめて言った。
「おかえり。磯野、待ってたよ」