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【映画#129】「神様のくれた赤ん坊」「自伝小説Ⅱ」(『恋愛 個人コレクションⅡ』)より

こんにちは、三太です。
 
11月になりました。
担当している学年の生徒が、明日から職場体験に行きます。
先週には結団式を行って、皆で決意を固めました。
この取組を通して、新たな自分に出会ってきてほしいなと思っています。

では、今日は「自伝小説Ⅱ」(『恋愛 個人コレクションⅡ』)に出てきた「神様のくれた赤ん坊」を見ていきます。
「自伝小説Ⅱ」(『恋愛 個人コレクションⅡ』)に出てきた唯一の映画です。


基本情報

監督:前田洋一
出演者:小夜子(桃井かおり)
    晋作(渡瀬恒彦)
    新一(鈴木伊織)
    子供を連れてくる女(樹木希林)
上映時間:1時間30分
公開:1979年

あらすじ

「私、産む」
「産むのを考え直してくれ」

売れない女優、小夜子と売れない漫画家の晋作の言い争いから始まる冒頭。
二人は口論から喧嘩別れとなりかけます。
そんな二人の前に現れた子ども、新一。
晋作が昔付き合っていた田中あけみという女性の子どもなのですが、晋作以外にもその父親である可能性のある男が4人もいる様子。
晋作は自分の子ではないと言い張り、親探しの旅に出ることにします。
なんだかんだ言いながら小夜子もついてきてくれます。
尾道、熊本、天草、長崎、北九州と巡ります。
期せずしてこの旅は小夜子の幼少期と今は亡き母親を追い求める旅ともなるのでした。

           左から小夜子、晋作、新一

設定

・ロードムービー
・九州
・家族のあり方

感想

全て見せずとも結末がわかるラストが上手かったです。
新一の心情は終始あまりわからないのですが、晋作と小夜子のもとで元気に育ってほしいなと思います。
晋作はないならないで「自分の子どもではない」ときっぱり否定したらいいところ、それをしないのは、思い当たる節もあったのかなと思いました。

ユーモラスな箇所もたくさんあるので、気楽に見られるのですが、実は「家族となるのに血のつながりは必要なのか」というけっこう深い問いを投げかける作品だなとも思いました。
桃井かおりさんは主役級の役なので、あまり思わなかったですが、樹木希林さんや吉幾三さん、泉谷しげるさんがちょい役で出てきていたので、今から思うとかなり豪華な作品でもあるなと感じました。

母求め九州巡る秋の暮

その他

・ウィキペディアより
→タイトルでは『赤ん坊』となっているが、新一役として実際に登場するのは小学校低学年ぐらいの子供で、まさか作り手がこのような大きな子供に対して『赤ん坊』とタイトルを付けることには別の意味があるのか、単にロケに赤ん坊を連れ回すのが困難と判断されたか分からない。赤ん坊なら問題なかったが、この年齢の子供にすると、母親から父親のことを聞いていたりとか、急にいなくなったりとか、別の展開も予想されるが、この子を「おしっこ」程度しか喋らせないおとなしい子という都合のいい設定にしている。

「自伝小説Ⅱ」内の「神様のくれた赤ん坊」登場シーン

長崎の丸山は言わずと知れた色街で、江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊郭と呼ばれていた時期もある。とはいえ、同級生たちも多く暮らし、普段から遊び回っていたこの界隈がそのような街だったと知ったのは、前田陽一監督で桃井かおりさんが主演した『神さまのくれた赤ん坊』という映画からだった。今、調べてみると、公開が一九七九年とあり、もし見たとしても、二番館での別の作品との同時上映だったと思われるので、見たのは小学校を卒業するか中学に入ったばかりのころになるだろうか。
映画には見慣れた石畳の坂道が出てきた。仲の良い同級生たちの家も映っている。その建物が以前は妓楼であり、女たちが色を売っていたという。

『恋愛 個人コレクションⅡ』(p.625)

「神様のくれた赤ん坊」が出てくるのは長崎の実家のある界隈の肉体労働者たちの多く暮らす男街と対比して、長崎随一の女街である丸山思案橋の飲み屋街について述べるところです。
この映画を通して、丸山が色街だと知ったということが述べられます。 

吉田修一作品とのつながり

さきほどの引用の少しあとに次のようなことが述べられます。

そして、その父の微かな動揺が、僕にぼんやりとした光景を蘇らせた。『神様のくれた赤ん坊』のラスト、自分が色街の娼婦の子供だと知らされて自暴自棄になった桃井かおり扮する主人公が、あの丸山の公園に立ち、男たちに声をかけるのだ。
気分良く飲んで帰ろうとする父に、同級生の女の子が丸山公園で声をかける光景が浮かんだ。
「あんた、うちの息子と同じ学校やろが!」と叱りつける父の声が、まるでその現場を見ているように耳に響いた。
ただ、先に言いわけさせてもらうが、この『神様のくれた赤ん坊』という映画に今描いたようなシーンが本当にあるのかどうか分からない。あくまでこれは自分の記憶の一部となっているこの映画の名場面であって、この小説を書くに当たって、調べようと思えば調べられたのだが、あえて調べないことにした。良い映画や小説が自分の人生の一部になるというのは、実はこういうことじゃないかと思うからだ。

同上(p.629)

吉田修一さんの考えには反するようですが、せっかく「神様のくれた赤ん坊」を見たので、確認してみました。
すると、濃い化粧をして丸山の街頭に立つ小夜子はいました。
けれども、男たちに声をかけるというほどではありませんでした。
全く映画と違うわけではないですが、積極的に行く(記憶)のと消極的に待つ(映画)という違いはあったのだなとわかりました。
ただ、私も吉田修一さんが言う「良い映画や小説が自分の人生の一部になるというのは、実はこういうことじゃないかと思うからだ」という考えがいいなと思います。

以上で、「神様のくれた赤ん坊」については終わります。
ロードムービーであり、ユーモラスでもあり、けれども深い問いを投げかける作品でした。

それでは、読んでいただき、ありがとうございました。

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