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猿若祭2月大歌舞伎 歌舞伎座 夜の部「文七元結」【観劇感想】

2025年2月、歌舞伎座 夜の部を観てきました。
長くなったため、《阿古屋》、《江島生島》とは分けて記載しています。


人情噺文七元結にんじょうばなしぶんしちもっとい

画像は歌舞伎美人より

中村勘九郎の長兵衛、中村七之助のお兼、中村勘太郎のお久、中村萬壽のお駒、中村鶴松の文七、尾上松緑の鳶頭、中村芝翫の和泉屋清兵衛。

まず、全体として素晴らしいと感じたのは、黙阿弥的な世話物にならず、ハッキリと、落語の三遊亭圓朝が得意とした「人情噺」の歌舞伎であったこと。見ながらも落語を聴いているような軽妙さ、テンポの良さ。役者みんなが、ひとつの話芸の中に生きているような形になっていて、中村屋ファミリーさすがだと思う。

序幕第一場 長兵衛内

暗い中で、「いまえったよ」と長兵衛(勘九郎)の声がする。部屋に明かりはなく真っ暗。おかねを呼び、どこに居るんだ、なんだ明かりも点けねぇで、とセリフが続く。え、勘三郎? 勘九郎? なんだか声が重なって聴こえるような錯覚。暗さに紛れて、勘三郎もちょっとセリフに参加してたりして、と思うと涙が…。

お兼(七之助)が明かりをつけると、部屋は畳どころかむしろもなく、傷ついた板がむき出しになっている。奥の間もない、寒々とした部屋。長兵衛の家ってここまで貧乏だったっけ。確かに年を越せない感じがする。

七之助のお兼が、いや~巧い巧い! 半纏はんてん一枚じゃ角海老へ行けないから着物を貸せと長兵衛に言われ、「これ貸したらアタシゃ裸になッちまうよ」の、きょとんとした声。長兵衛の素っ頓狂な言葉を、いかにも初めて聴いた、ちょっと何言ってるか分からない、という感じがすごい。

序幕第二場 吉原角海老内証の場

借金がかさんで年を越せない親のために、自ら身を売りに来た娘お久を、そうとは知らず長兵衛が迎えに来る場面。

角海老の女将お駒は中村萬壽。情のある女将でありつつ、長兵衛がお久を諭しながら、お女郎なんてのは…と口走った途端に「あなた、いまなんてッた!?」的にキッとなるのもいい。

そして芝居がいいのはもちろん、萬壽のお駒は羽織も素敵。紺地に小さな模様が入った羽織で、その渋さが似合っているし、舞台全体の色味への効果がいい。
この内証の場は、最初はお駒のそばに3人の女郎衆がいる。彼女たちの着付の色味があるので華やかだ。お客が来たというので彼女たちが出ていくと、長兵衛が来て、部屋の中の人物のカラーがグッと渋くなる。しぜん、角海老の娘分のおみつのパッと明るい着物が目に入り、年齢は近いのに真逆なお久のみすぼらしさ哀れさが強く浮き上がってくる。

ちなみに2002年に玉三郎が角海老のお駒をしたときは、わりとハッキリした絵柄の羽織だった。その前に中村雀右衛門(4代目)のお駒も見た記憶があって、えんじ色の地だったか、けっこう艶やかさのある羽織だった気がする。それもあって萬壽の渋い色合いは意外だったのだけれども、こういう感じもとてもいい。

2002年、坂東玉三郎の角海老女将お駒の衣裳。羽織はわりと華やか。

二幕目第一場 大川端の場

鶴松の文七が登場。この文七が本当に素晴らしい。

お久が身と引き換えに作った五十両。長兵衛はその金を懐にして帰途につく。これで借金を返して、明日から心を入れ替えて真面目に働き、少しでも早くお久を角海老へ迎えに行こう。そこへ、取引先から受け取った五十両をられたと(思い込んで)死のうとする文七に行き合う。ともすると、この展開は、ああ気の毒な長兵衛、間抜けなお店者たなものがお久の苦労を水の泡にするのかと、因果話に見えてしまう。

鶴松の文七がそうならず、人情噺という形を保っているのは、ひとつはセリフのテンポも含めて落語の登場人物である「すっとぼけてるが憎めねぇヤツ」感がしっかりあること、もうひとつは、文七が背負っている孤独をハッキリとこちらに見せて、長兵衛が金を渡す流れに説得力があるためではないだろうか。

助けようとした長兵衛に突き飛ばされて、文七「ケガでもしたらどうするんですッ」、長兵衛「…死のうとしてたやつが、なァにを言ってやがるんだ」。文字では表せない、落語らしい笑いの呼吸。
この笑いから、ふっと落ちるような身の上話になる。

頼れる家族も親類もなく、唯一、真面目に勤めれば暖簾のれんを分けてやると言ってくれる奉公先の主人だけが頼りだった文七。その人に恩を仇で返してしまった申し訳なさ、金を盗んだと疑われる辛さ。文七には、もう生きる場所がない。土に伏して啜り泣く、その声と姿が胸に迫る。話を聞いた長兵衛は、ぽつりと一言。

「おぇ、ひとりぼっちか」。

画像は歌舞伎美人より。《文七元結》大川端の場

長兵衛には、身を売ってまで金を拵えてくれた娘がいる。喧嘩ばかりだが妻もいる。それでも災害やインフレ、生きるのは大変なのに、文七には頼れるものが何も無い。
「なァに、いいんでございますよゥ。あたしさえ、この川に飛び込んで死んじまえば…」。無縁仏まっしぐらかもしれない文七の、暗い目の輝き。
幕末から明治にかけて活躍した圓朝が得意とした人情噺であることを考えると、不安定な時代を生きた当時の観客にとって、身に迫った話だったのかしら、と想像してしまう。行く先も見えない世の中、かつての江戸っ子の、信じられないようなお節介をお話の中で味わうことは、いくらかの慰めだったのかもしれない。

的はずれであろうわたしの勝手な想像は置くとして。
鶴松の文七、投げつけられたものが本当の金と判って、ありがとうございますと長兵衛の去った方を拝むところまで、真に迫って、それでいて落語らしくちょっとお気の毒で、可愛らしくて、清らかで。
いやもう、鶴松の瞳の美しさが如何いかんなく発揮されたこの配役に、伏して御礼を申し上げたい。

二幕目第二場 元の長兵衛内の場

お久が身を売ってまで用意した大金を、長兵衛が人に貸したというので、妻おかねは大激怒。
「どこの誰に貸したんだい、言ってごらんッッッ」と怒鳴りまくる七之助のお兼が最高。最高以上の表現ってどう言えばいいのでしょうか? 湧き上がる拍手。歌舞伎座で、手を叩いて爆笑する客席ってほんと久しぶり。それもドタバタの面白さというより、話芸に重点があるというか、落語の呼吸がとても大事にされているように見える。観て笑っているけれども、この力への感嘆も同時にある。

和泉屋清兵衛(芝翫)が文七(鶴松)を連れてやってきて、五十両はられたのではなく文七の置き忘れだったことなど説明する。鳶頭(尾上松緑)に伴われて駕籠が来たと思うと中からお久(勘太郎)が飛び出してくる。和泉屋清兵衛は長兵衛の意気に感じて、お久を身受けした上に文七と所帯を持たせ、幾久いくひさしく親戚付き合いをしたいと提案。
文七とお久の縁談をまとめる片岡市蔵の家主も実にうまく、全員での最後の渡りぜりふもこれぞお手本という心地良さで、めでたしめでたし。

鳶頭が尾上松緑で、セリフは多くないのだけれど、如才ない笑顔の奥に、この手の調整役を担っていた彼らの背景みたいなものが感じられた。

猿若祭の夜の部、どの演目も素晴らしく、打ち出しの太鼓をこんなに気持ちよく聴いたのは、いつ以来だろうか、というくらいだった。

長文お読みいただきありがとうございました。
同じ夜の部《阿古屋》と《江島生島》は、記事を分けております。