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「生きた線」を書く
小学3年生から中学3年生まで、書道教室に通っていた。
家の都合で小学6年生から転校したにも関わらず、毎週、親が元の書道教室まで送迎を続けてくれた。
熱心だったのは親のほうで、中学になると部活動も忙しく、正直わたしは、もう辞めてもいいのになと思いながら、毎週車に乗せられていた。
先生は、元は高校の先生だったという女性で、とても穏やかで、心が広く、ユーモアのある人だった。
わたしは、長くお世話になったにも関わらず、書道について教わったことをほとんど覚えていない無礼な生徒なのだが、一つだけ、今も忘れられないことがある。
わたしが書いた「平」という字の一画について、「線が死んでいるね」と言われたことである。
先生は決して叱責の調子で言ったのではなかった。
これには少し、経緯がある。
*
転校する前に通っていた小学校は、理科展とか、書道コンクールとか、そういうものに力を入れていたらしい。らしい、というのは遠い昔すぎて、詳しいことをほとんど覚えていないからである。
ともかく、わたしはその小学校では、書道というと学校へ呼ばれ、同じように声をかけられた数人の生徒とともに、ひたすら作品を仕上げる、ということが何度かあった。
集まった生徒には上級生が多いとはいえ、小学生である。
休日に学校に集まって、おとなしく書道ばかりするはずもない。
当番の先生の姿が見えなくなると、わたしもすぐに、他の生徒に混じって校庭へ出たり書き損じの紙を投げ合ったりと遊び回る。
別のクラスから呼ばれていた子に、Uちゃんという女の子がいた。
彼女もこの手のイベントには常連で、素晴らしく整った字を書いた。
きっと良いお家のお嬢さんだったのだろう。はしゃぎ回る仲間には入らないが、わたしを嫌がるでもなく、にこにこと見ていてくれるのだった。
彼女は、条幅の準備となると、「絨毯ですか!?」と思うほど厚みのある翡翠色の下敷きを、しずしずと床に敷く。重そうな文鎮を二本使い、驚くほどゆっくりと、筆先の整った字を書く。
跳ねも払いも、溜め息が出る優雅さである。
憧れた。
わたしはというと、書道教室でも、練習もそこそこに半紙にゾンビが主役の4コマ漫画を描いて連載(?)してみたり、先生の家の庭に生えている枇杷の実を食べて、その種を清書用の半紙に落っことして紙をダメにしたり。
おそらく、教え子の中でも3本の指に入る困った子だったと思う。
物静かに優雅に美しく、まるで毛筆フォントのような文字を書くUちゃんの姿は衝撃で、こうなりたい、と思った。
まっすぐな線は、まっすぐに。跳ねは三角錐のように。
学校の練習で見たUちゃんの字を思い浮かべ、わたしはひたすら書いた。
当時の条幅のお題を、もう忘れてしまったが、「平和」という字があったことは覚えている。学校だけでなく書道教室でも、ひたすら同じお題を書いた。
できた、と思った。
毛筆フォントのような直線、とめの丸み。「平」の二本目の横線である。
最後の文字まで書いてから、わたしはいくらか興奮して、書道教室で先生に声をかけた。
どうだ、真っ直ぐ書けた、みたいなことを言ったのだと記憶している。
わたしの書いたものを先生は見て、穏やかに、そうだね、と言った。続けて、「平」の二本目の横線を指して、「でも、この線は死んでいるね」と言った。
ショックだった。
普段、穏やかな先生の口から出た、思いのほか強い言葉。すぐには言われている意味が分からなかったが、褒められていないことは明らかだった。
「平」の字を見て、どういう意味だろう、と考えた。
いや、意味はやがて分かった。
その線だけが、明らかに浮いている。例えるなら、明朝体の文字の中で、二本目の横棒その一画だけが、ゴシック体みたいな違和感。
確かにこの一線が、威圧するように周りの字を殺している。
誤解のないように申し上げると、Uちゃんの書は素晴らしかった。
それを真似ようとしたわたしが稚拙で、捉え方が間違っていたということだ。
手本に忠実に、美しく。
そう思い続けていたわたしに、書道の目標はそれではない、と教えてくれた短い言葉。
*
あれからもう、何十年になるのだろう。
子供の夏休みの宿題に、書道が入るようになって、久しぶりにわたしも書いてみた。自分では気を抜いたつもりがなくても、「死んだ線」はあちこちに入り込んでくる。難しい。
「生きた線」、「生きた線」。
それを書くのだと、自分に言い聞かせて書く。
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