「比べる」で楽しさ倍増!_第56回文楽鑑賞教室『伊達娘恋緋鹿子』、『夏祭浪花鑑』(Aプロ&Bプロ感想)
新国立劇場の9月、第56回文楽鑑賞教室、AプロとBプロを見てきた。
もとはBプロだけチケットを買っていた。
もうひとつ追加したのは、いとうせいこうによる呂勢太夫のインタビューに、世話物の語りは人によってずいぶん違うので、比べてみるといい、とあったからである。
この聴き比べ、やってみるとその魅力は悪魔的だった。
感じたもの、違いなど残させていただきたい。AプロBプロが混じった形で読みづらい点、先にお詫びします。
■配役表
1. 『伊達娘恋緋鹿子』火の見櫓の段
AプロとBプロで座席が全く違った(Bプロのほうが座席が舞台に近かった)ので、感じ方にも影響があったとは思う。
娘お七は雪の降る夜、鐘の音を数えている。鐘が鳴るたび、そっと指を折る密やかな動きで分かる。
もう深夜。吉三郎に剣を届けたいが、木戸が閉まっている。
どうしようかとうろつく背中がトンと櫓の板に当たる。当たって、お七はあとずさるように櫓から離れる。
離れるのは、高くそびえるものを見るとき、真下からではよく見えないからだ。(たぶん)
一度目は、なぜここでお七が櫓から離れるのだろう?と思ったのだが、二度目でそう思った。
もろ肌を脱いで赤の襦袢も鮮やかに、髪をさばき(髷が崩れてポニーテールみたいになる)、激しくカシラを前後に振りながらお七は櫓に取り付く。
連獅子の毛洗いとまでは行かないが、テンポのゆるいヘッドバンギングぐらいの激しさである。
Bプロでは足拍子と音楽の息が合い、お七の感情の昂ぶりが窺える。
お七は櫓を登る。ここが面白い。
普通に背中を向けると、人形遣いの後ろ姿ばかりになってしまうなぁと思っていたら、櫓にはハシゴをの両脇に、下から上まで切れ目が入っていて、櫓の内側(?)から人形遣いが手を出し、お七の手をつかまえる。
舞台上で、お七の背中側にはもう人形遣いは誰もいない。櫓の中の人に手をつかまえられて、お七はするするとハシゴを昇っていくのだ。
超クオリティの高い、”欽ちゃんの仮装大賞”みたいだ。(褒めているのですが語彙が貧弱で申し訳ない)
途中お七は、足を踏み外したふうで、がたんがたんと少し落ちる。
Aプロでは、腕の力だけで昇っていて腕が滑り、まっすぐ落ちてきたように見えたが、Bプロでは、ハシゴの段を足が滑りながら落ちてくる感じがあった。(女方の人形には足がないのに)
髪を振り乱してなかなか激しく登ったのだが、語りは「難なく火の見の上」というのが笑える。(お客さんは誰も笑ってない)
半鐘を打ち鳴らす、お七。
先に見たAプロでは、叩いたあと、僅かな彼女の静止の理由が分からなかったのだが、Bプロで、彼女は耳を澄ましているのだと気づく。
彼女が鳴らした鐘に反応するように、周囲の櫓から半鐘が聞こえてくる。
夜を貫く半鐘に、起き出した人々が動き始めるのを見届けるようにして(舞台上に他の人形は出てこない)、お七は櫓を降りる。
真冬の冷たい夜の中、真っ赤な襦袢の袖が目に染みる。こんなふうに、彼女の心は激しい恋と興奮に沸き立っている。
暗がりと黒板の櫓、お七の段鹿の子の着物、真っ赤な襦袢の袖、白い雪。
短いけれど、劇的で強く印象に残る演目だった。
2. 解説 「文楽の魅力」
Aプロでは、顔を隠した黒衣姿人形遣い(吉田簑太郎)が登場。大阪弁だろうか。
顔を出すときは「どんなイケメンが現れるかと思いきや、残念ながら人形と似たような感じです」というこなれた喋り。
カシラの動く仕組み、映像を使用した文楽の芸術的な魅力の説明、女方の人形を使って三人遣いで生まれる動きの妙を知ることができる。
Bプロは最初から顔を隠さず人形遣い(桐竹勘次郎)が登場する。東京弁に聞こえる。
カシラの動く仕組みの説明はほぼ同じだが、こちらは次に立役(逆櫓の樋口みたいな髪の長いもの)と、女方の2体の人形を使って男女の人形の違い、動きなどを説明する。女方の人形のくだりでは1~2分、写真撮影OKになる。
プログラム(無料!)を見ると、Cプロの「解説」では三味線のかたも出るようなので、そちらも見てみたかった。残念。
3. 『夏祭浪花鑑』 釣船三婦内の段、長町裏の段
これはもう、至福でした。
■釣船三婦内の段
Aプロは竹本芳穂太夫の語り分け、特に琴浦の、艶のある声とセリフが感動的。
この場面は登場人物が多い。
おつぎ、琴浦、磯之丞、三婦、お辰。
地の文に加えて5人の人物を語り分ける。
遊女である琴浦のしっとりと艶めいた声から、三婦が5,6年ぶりに喧嘩好きの”荒けもの”に戻る「喧しいわい」のガラリとした声まで。
一つの身体からこれほど違う声が出ているなんて、信じられない。
Bプロは豊竹呂勢太夫。地の語りの線の太さ、リズムの心地よさに唸る。
三婦を、徳兵衛と団七が連れ帰ってくるアト部分の竹本碵太夫もいい。
人形の動きもとても良くて、特に”解説”も担当していた桐竹勘次郎が遣う琴浦と、吉田玉彦の磯之丞の間に漂う空気が親密。
琴浦は、磯之丞が奉公先の道具屋で、そこの娘と良い仲になって駆け落ちまでしたことに腹を立てている。
膝を磯之丞から背けて座った様子、ツンとそっぽを向いた顎の角度。それでいて煙管から煙を吹きかけるときの、ジャラリとした雰囲気。
おつぎに、「事によったら二年三年、」会えないんだよと諭された琴浦の、フッとした思い入れ、この琴浦の動きを受ける磯之丞など、人間では生々しくなりすぎる二人の間柄が、とても塩梅良く表れていたように思う。
■長町裏の段
三婦内の段から、薄い黒の幕を降ろして、祭り囃子を聞かせながら幕の向こうは場面転換になる。柝を合図に幕が振り落とされて、上手に泥池、ほぼ中央に井戸のある、長町裏の段である。
Aプロは義平次を豊竹靖太夫、団七を竹本小住太夫。
団七を演じる小住太夫がつけている肩衣(かたぎぬ)は団七縞。
小住太夫の声は深みがあって、素晴らしくいい響きだ。
団七という男が本当は、このような境遇にいるのはもったいない人物であるのが感じられる。
雪駄を使って団七の顎や頬をなぶるところなど、人形ならではの遠慮なさ。
響きが良く、深い団七の声と、キシキシといやらしい義平次の声が絡まり、人形の動きと重なって、聴いているこちらまで、じっとりと汗が出てきそうだ。
「人殺し、親殺し」と声を上げる義平次の口を、団七は塞ぐのだが、塞がれてモガモガした声の感じも、太夫は手を使ったりせず声だけで表現することに驚く。
この場面、Aプロでは「斬ったな。人殺し…」という義平次に対して、団七は「滅相もない」、何を云うんだ斬ってないという展開で、義平次の口を塞いで自らの手の刀を見、(おそらく付いている血で)自分が義平次を斬ってしまったことを悟るように見えた。
Bプロでは、「斬ったな。人殺し…」という義平次に対して、団七は「滅相もない。怪我でござります」で、自らの手の刀を見る動きより前に、団七は義平次に傷を負わせたことは分かっているのだなと感じた。
(印象に残るセリフがそれぞれ違っただけで、内容は同じだった可能性もあるが)
「こりゃモウ是非に及ばず」で団七は義平次に斬りかかり、修羅場と化していく。
バッサリと一太刀浴びせられると、もう義平次のセリフはあとは無く、義平次を語る太夫さんは下がってゆかれる。ありがとうございました!
そしてここから、想像をはるかに超える、殺し場になる。
団七は義平次を、泥池へ蹴り込む。
帷子を脱いで、赤いふんどしに全身の入れ墨があらわになる。
泥から、義平次がのったりと這い上がってくる。髷はほどけて白髪交じりの髪はざんばら。首に藁がまとわりつき、顔も身体も血と泥で汚れた恐ろしい姿である。(本物の泥や水はない)
団七は義平次の息の根を止めようと追いかけ回し、義平次はコケつまろびつ逃げ回る。ドン、と首の後ろへ叩き込むように刀を打ったあとは、太鼓はドロドロという打ち方になって(おばけが出るあれみたいに)、義平次はもう死の痙攣というか身体の反射的なものだけで動いているような怖さがある。
念仏を唱えながら、団七はとどめを刺す。
そして泥池へ蹴込むと、自らは井戸の水で身体と刀を洗う。どんどん近づいてくるだんじりの祭り囃子が緊迫感を盛り上げる。井戸の水を汲み上げる団七の手がぶるぶると震えているのが分かる。
帷子を着込み、祭りの連中をやり過ごすと、団七は泥沼のふちに腰を下ろして、頬かむりを取り、泥を覗き込む。
これは舅の死を確かめたのだろうか。きっと恐ろしいものが見えたのだろう。
鐘が入って、南無阿弥陀仏と唱える団七。
このときの「悪い人でも舅は親」っていうセリフ、Aプロの小住太夫の団七は、何か一線を超えてしまったというか、義平次を斬る前の団七とは別の人になってしまったような暗さがあった。
団七は、琴浦を三婦のもとへ戻すことに成功し、義平次の死体も隠して、この場はいったん切り抜けたように見えるけれども、もう団七に魂の安穏は訪れない。
団七の行く先には、暗い闇しかないのだと感じる。
それでも団七は、いまは行かねばならないから、団七走りで下手へ駆けてゆく。
*
さて、Bプロである。
団七の声は、Aプロの小住太夫のほうが好きだが、Bプロの豊竹希太夫も、映画の吹き替えを担当するならユアン・マクレガーみたいな美男の主役系だろうと思わせる。(語彙が貧弱で申し訳ない)
こちらも団七縞の肩衣をつけている。
義平次を語るのは、豊竹藤太夫。いやもう、圧巻である。
団七を突き除けたり、雪駄でなぶるときの憎たらしさ。
そのくせ、三十両を受け取ろうとするときの手のひらを返したような猫なで声。刀の柄に足をかけ、斬ってみろと挑発する大人気なさと、傷を負ってからの怯え、不安と恐怖の叫び。
嫌な奴である上に、義平次はその度合いが一貫していない。とことん得手勝手な男、とでも言おうか。
Bプロで義平次を遣うのは、吉田簑二郎。
まいったですよ。めちゃくちゃ面白い。この人の義平次。
団七の話を聞きながら団扇で蚊をぶっ叩き、股ぐらを扇ぐ品の無さ。
「人殺し」と言った口を抑えられて、苦しそうに身体をヒクつかせながら団七の手をトントンと叩く仕草。
井戸を挟んで団七と向かい合い、その刃から必死に逃れようとする息遣い。またこれがすごい。
団七を遣うのは吉田簑紫郎。
ちょっと待って、
団七と義平次の動きって、段取り…ある…んですよね?
これマジで追っかけっこしてたりする?? ってくらいの緊張感と、異様な面白さ。
出遣いの人を見れば、どちらも、袴をつけた上品な紳士。
紳士たちがね、ひたいに汗を浮かべて、真剣に息を詰めている。
それぞれの足遣いと左遣いを含めたら、6人の紳士が、真剣に2つの人形でもって生命の攻防をしている。
緊迫した恐ろしい場面なのに、なぜなのでしょう、同時に、ものすごく楽しそう。
特に義平次を遣う吉田簑二郎は、生き生きとして。
これが、阿吽の呼吸なのでしょうか。阿吽の呼吸って6人でも可能なんですね。文楽ってすごい。
■吉田簑紫郎さんのインスタから、義平次の写真 ↓
井戸を挟んで、右か、左か、身体を振って団七がダッと追いかける。義平次がぐるりと逃げる。
向こうから団七が刀で突く、義平次が躱す。切っ先が耳のそばをかすめる。
あぶねっ。
団七が叩く、太刀が井戸のフチに当たってバチィン!と鳴る。
また突く、井戸の内側の石の隙間に剣先が挟まって抜けない、引っこ抜く、また刀を振る。
団七って、帷子を脱いだら入れ墨があって、真っ赤なふんどしは目が覚めるようで、最初よりすごく大きく見える。手も長い、太ももあたりもガッシリして大きい。
その大きな団七が、ぎらりと光る長い刀を手に、すごい鋭さで突き出してきたり、叩きこうとしたり、フェイントかけながら井戸を回り込んでくる。
逆に義平次は、斬られるまでのギョロギョロした目の力がなくなって、小汚い、泥と血にまみれた、ひょろっこいジイさんになる。震えるように井戸の陰にうずくまったりする。
「親じゃぞえ」と義平次が肩をいからせ挑発し、団七が身を縮めて耐えていた前半から、まるっきり逆転している。
それで、井戸の周りの追いかけっこ二度目、義平次はほんのわずか、逃げ遅れる。
見ているこちらは、ああッ遅れた!って心の中で叫ぶ。
団七が義平次を蹴倒す。
ついに義平次が捕まってしまう。
団七が次第に、もう団七じゃなくなっていく。
仰向けに倒れ、力なく腕もだらりと垂れた義平次に、団七は容赦なく、ぎょっとするほど強くグッサリと刀を突き立てる。
飛び上がりこちらに背中を見せて刀の柄に両手をつき、見得。
息絶えた義平次を泥へ蹴込んで、団七は井戸の水で身体と刀を洗う。焦らせるように祭り囃子が近づいてきて、ヷーっと通り過ぎていく。
「悪い人でも舅は親」というセリフは、Aプロとはまた違う聞こえ方だった。
Aプロは、人殺しによって何か(たとえば陽の光をきらっと素直に反射させるような部分)が変わってしまい、陰鬱ではあるけど、それでも団七ではある(それだけにいっそう気の毒)。
Bプロは、団七は口では念仏を唱えているけれども、心は、次に自分がしなければならないことに向いている。まだ興奮状態にある。だからすごく力強く団七走りで駆けていく。物語はまだ続く感じが漂ってくる。
*
わたしはAプロとBプロを1度ずつ観た(聴いた)が、「2回観た」という表現では足りないほどの収穫があった。またこのタイプの上演があったら、全パターンでチケットを取る。
他にも、書きたいこと、言いたいことがたくさんある。
あるけれども、わたしも興奮しすぎていて、うまく書けない。書きたいことを整理できていない。
文楽が好きな方々は、いったいどうやって、これほど素晴らしいものを、短い言葉で表現しているのだろうか。
お読みくださいまして、誠にありがとうございました。
■歌舞伎『夏祭浪花鑑』の感想もぜひよろしくお願いします