事実かどうかよりも集団が信じたいことと一致していることが信じられて、実際に影響を与えていく〜『万物の黎明』を読んで思ったこと〜
2月から読み始めている大著『万物の黎明』。
この本の意図としては
といったことがあります。
3章くらいまで読み進めていく中で分かってくるのは、私たちがある種、西洋的だと思っている特徴はいずれも、もともと西洋社会(主にはフランス)の持つ特徴ではなく、17世紀頃に彼らが出会ったアメリカ先住民にみられたものだった、ということ。
極端な言い方をすれば、彼らより複数の点で劣っていると痛感させられたフランスはじめ西洋の方々が、彼らの方が劣っているという論理をつくりだし、その前提で社会づくりを進めていったこと。
その余波はいまだに過分に残っているということ。
でした。
書籍では文献を丁寧に辿っているので、なぜ事実とは異なる啓蒙思想家たちの主観がこうも信じられ、用いられていったのか、たとえば、アダムスミスに大きな影響を与えたテュルゴーは当時20代半ばで、アメリカ先住民が一番下の段階に位置付けられるような社会の4段階説を提唱していました。とはいえ、当時、多くの人が目にしていたはずの先住民の旅行記などを見ていれば事実ではないことが分かるのです。極端な言い方をすれば、若者の荒唐無稽な説なはずなのに、なぜその後、時代を動かすような波を生み出していったのか疑問があったのですが、より大局で捉えることで浮かんだ仮説があります。
それは、その意見が正しいかどうか・事実に基づいているかどうか以上に、集団心理が求めている方向性(脚本)に即していれば、よく用いられ、結果として影響が及ぼされていくということです。
具体的に言いますと、17世紀頃のフランスではまだまだ宗教(キリスト教)がとてつもなく大きな影響力を持ち、それこそアメリカ先住民がフランス人を奴隷だと揶揄したように、がんじがらめで生きていました。
この宗教というヒエラルキー制度に対する不満はどんどん溜まっており、どうにかひっくり返せないか、という機運があったのでしょう。
当時の主流に対して反逆者と言える人たちはキリスト教的な創造神話の代わりを求めており、後にダーウィンの進化論が曲解されて用いられ、その後に大きく影響したことと同じように、この集団心理・集団的無意識ともいえるダイナミズムに後押しされ、一部の啓蒙思想家がつくりだしたフィクションに基づく社会づくりが推進されていったように思えます。
書籍ではこのように書かれています。
この中世の確信を揺さぶり、宗教の代わりに覇権を握ることになったのが、科学と言えます。
人々に科学を求めさせた「何か」
これが、人に何を信じさせるのかに大きく影響している、そのように思えたのです。
このレンズで現代を捉えてみると、例えば宇宙人の話といった非科学的に思えること・陰謀論・都市伝説が一定の人によく語られている構図が紐解けるのではないでしょうか。
大切なことは宇宙人の話が事実かどうかではなく、そういった話を人々に信じさせたいと思わせているのは現状が◯◯だから。の○◯が何かを洞察しようとしてみることだと思いました。
中世におけるキリスト教中心社会の中での科学は、現代社会における宇宙人(宇宙船の原動力?)と多くの人にとって想像がつかない、という意味で相似形かもしれません。
とはいえ、私たちはどこからどこへ向かっているのか?そこに個々人の自由意志はあるのか?といった問いに対する答えを私は現時点では持ち合わせていません。
ただ、今回の気づきのおかげで、今あるさまざまな情報を捉える新たな視点を得ることができたと思っていますので、引き続き上記の問いを持ちながら、情報を捉えていきたいと思います。
おまけ
タイトルもそうですが、「集団が信じたいことと一致している」と書いた箇所について、そもそも「集団が」なのか、陰謀論的な話になりますが「時の権力者を超えた誰かが」「集団に信じさせたいことと一致している」なのか、それこそどういった観点で捉えるかで変わってくるよなぁと思っています。このあたりは個人的には主観の領域に思えちゃいますね。イチ一般人には事実かどうかを確かめる術がないように思えますし、信頼できる方の情報であっても最後に信じるのは自分次第だよなぁ、と。さて、私は何を信じたいだろうか。