寛容は不寛容に対して不寛容になるべきなのか?〜書籍『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を読んで〜
はじめに
以前から気になっていた書籍『コンヴィヴィアルテクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ 』を読みました。
興味深い箇所が多数あるのですが、今回はその中でも異なる「正しさ」を持つ他者と共に生きるための鍵として紹介されている「寛容さ」について、気になる内容があったので紹介します。
寛容は不寛容に対して不寛容になるべきなのか?
著者である緒方さんは「寛容さ」について2人の意見を紹介していました。
1人目が、1902年に旧オーストリア・ハンガリー帝国で生まれた哲学者のカール・ポパーです。彼は寛容さということについて著書『開かれた社会とその敵』にこのように書いています。
カールポパーは、「寛容は不寛容に対しては不寛容であるべき」という立場を取っています。
一方で、対比する意見として紹介されているのが1901年に日本に生まれたフランス文学者である渡辺一夫のものです。
太字にしたところから分かるように、渡辺の意見からは不寛容に対しても寛容であるべき、といったニュアンスが伺えます。
ちなみに著者である緒方 壽人さんはこのテーマについての自身の意見については、少なくとも138ページまででは表明されていません。
私の意見「相手の不寛容さに不寛容さで合わせることができる寛容さを持つこと」
実際は、ポパー、渡辺の両者ともどういう文脈で書いているか引用元を読んでいないので何とも言えませんが、あくまで引用文だけを受けての私の意見は、あえていうならハイブリッド型と言えるかもしれません。
それは、
「不寛容さに対して、単純に寛容さで応じるのではなく、ある種、相手のルールに乗り、合わせて関係をつくった上で、自身の意見を通すこと」
です。
こう思ったのは過去の経験から。
話す相手が感情的になっているとします。
その相手の激しさに対して、落ち着いて接する方が適切な態度ではないか?と思われるかもしれません。
しかし、効果的なコミュニケーションを取るためには違うのです。実際に効果を出すには口調や話す内容は同じだとしても、声のトーンや大きさ、スピードはまず相手に合わせることが大切なのです。(相手と共感するとも言えます)
そして、この共感の状態になった上で、共通理解に向けてコミュニケーションをとっていく、という積み上げ式のプロセスが大切です。
今回のテーマに、この枠組みを当てはめてみると、そもそも寛容さをどう表現するか、によりますが、相手に合わせることなしに、自分の土俵だけを主張することは、実は不寛容なことなのです。
相手を自分の土俵に上がってくるようにコントロールしたいわけですから。
そのアプローチで、相手が応じないことを一方的にジャッジしてしまっていませんか。私はしてしまっていました。。
これを寛容さと呼べるかは疑問です。
とはいえ、このアプローチをとることが可能になる前提があります。
それは、そもそもこちら側が適切な力を持っているということ。
相手と対等かそれ以上を力を実際に持てているか、あるいは、そのように相手に信用させる力があるかどうか。
ただし、後者はその後で辻褄を合わせることができなければなりませんが。
寛容か不寛容かを、実践を前提に話すには前提として力が必要だ、ということです。力があれば、紹介したプロセスを機能させることができますし、むしろ別なMYルールをつくる方向に持っていくことができます。まだまだ国際政治の勉強は足りていない中の付け焼き刃ではありますが、アメリカがヨーロッパに有利なルール・ゲームと捉えることができうると言えるパリ協定を抜けたことが、マイルールをつくる方の選択肢だと書かれている文を読んだことがあります。
なるほど!と思いましたし、それができるのはEU、ロシア、中国と並ぶ世界の大国アメリカだからこそとれるのだなと思いました。
さいごに
私の意見は、とんちのようなものと思われてしまうかもしれませんが、実務・実践においては」0か100ではないですし、問題が起きた際に主語が大きいままだと納得も伴った上での解決に至らないと捉えています。
とはいえ、主語を小さくすると責任論みたいな話になってしまい、それはそれで微妙なのですが、誰か一人ではなく、関わった全員の中に出来事に対して感じたことがある。その感じたことへresponseするabiltyがある、という前提で同様に扱っていくことができたなら、紐解いていけると信じています。