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「自然の人間化」という視点が興味深い〜今西錦司氏に学ぶ〜
はじめに
たまに、今西錦司氏(故人)にまつわる記事を書いています。
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各種メディアでも取り上げられている京大の前総長であり、ゴリラ総長とも言われる山極寿一さんの、師匠である伊谷純一郎氏の、さらに師匠であり、「文明の生態史観」で有名な梅棹忠夫氏、KJ法で有名な川喜田二郎氏の師匠でもあり、他にも様々な人に影響を与えた人物です。
氏の膨大な叡智に触れる上で入門として、JUNKANだいこんという団体の中でオススメしてもらったのが書籍『岐路に立つ自然と人類―「今西自然学」と山あるき』でした。
その団体の仲間達と読書会を行い、昨年読み終えることができました。
今回は、最近、読み直す機会があったので、その中から一部面白かった箇所を紹介したいと思います。
「私の自然観」というパートで面白かったところ
このパートの中で、今西氏が自然と人間の関係の変遷について書かれた箇所がありました。そもそもこの文章は、1966年以前に書かれているため、歴史的に正しいプロセスなのかどうかはリサーチしてみないと分かりません。ただ、今西氏のまなざしに映った、私には大きく3ステップに思えた自然と人間の関係性の変遷の枠組み自体が、面白かったので引用しながら紹介します。
(1)自然という体系からの人間の離反・離脱
まず1つ目。
自然と人間の対立の第一歩は、人間が広大な沖積原を開発して、これを耕地化し、そこからとれる余剰食料によって、その上に多数の人口を収容しうるようになったときからはじまる。
いままで自然に埋もれて、細々とくらしていた人間が、ここにおいてはじめて、自然とは別個な、人間と人間に隷属した生物だけの領土、あるいは世界を持つにいたった
これは明らかに、いままでその中に籍をおいていた、自然という体系からの人間の離反であり、離脱である。
(2)人間世界に住む人間の利用対象としての自然
続いて2つ目。
こうした人間の領土が、中近東からインドに拡がり、アジア、ヨーロッパ、アメリカと、だんだん拡がっていくが、その最初の領土が、鬱蒼と茂った森林地帯ではなくて、自然からみればその辺疆の一つにあたる、乾燥地帯からはじまっていることは、興味が深い。
人間の領土に文明が栄え、宝石や金属の需要が多くなると、いきおいこれを領土以外の地、すなわち自然に、求めるようになる。その他なんでも、よいもの役にたつものを、自然から取ってくるようになる。いきおい、人間世界にすむ人間の眼には、自然は利用のためにこれを略奪すべきもの、ということにならざるをえない。
その揚句は、自然にのこった人間までを捕えてきて、これを奴隷に売るようなことにもなった。
自然に対置された人間というのは、人間世界の文明の中にすむ人間のことであり、アフリカ人は人間ではなくて、自然の一部と考えられていたのである。
(3)人間による自然の人間化
最後に3つ目。
自然から独立した人間は、はじめの頃は自然と対立し、これをもっぱら略奪するばかりであったかもしれないが、人間の側の利用が進むにつれ、人間は自然を改造することによって、これを馴化し、その利用の永続化をはかるようになった。それはすなわち、人間による自然の人間化にほかならない。
面白かったこと
この3つの中で、特に3つ目の「人間による自然の人間化」です。私は、母方の実家は農家ですが、私自身は都市で生まれました。北海道や長野に住んでいたこともあり、その頃は、人間化されていない自然と触れ合う時間を持てていたように思えますが、それ以降以外のほとんど、ただ自然だと漠然と思っていたそれらは「人間化された自然」だったのだ、と思い、そういう風に考えたことはなかったなぁと思ったのです。
さらに興味深かったのは、上記の3つについて書かれている文章の後、最後に書かれている以下の内容です。
自然は、それ自体として、環境の利用をはかり、その生物の種をふやし、その体系を整備していったが、いまやそれも、ほぼ完成の域に達し、そのままほっておいたのでは、それでもう生物による環境の利用ということも、ひいては進化ということも、とまってしまう。それではいけない。
そこで、最後になって新しく自然に登場してきた人間が、自然の握っていたバトンを受け継ぎ、自然に変わって環境の利用をはかることとなり、人間はすでに、生物の利用しえなかった非生物的環境の利用において、すさまじい成功を収めつつあるばかりか、生物的自然そのものをも、人間の利用の立場から、これを改造し、これを人間的体系のもとに再編しようとしている。
かくして、この地表上にのこる自然は、おそかれ早かれ、いずれもみな人間化されざるをえない。いまになって自然の保護地をつくってみても、それさえが人間化された自然の一部にすぎないであろう。
これは人間による自然の人間化に対して肯定的というか、不可逆なこととして諦観のような質感を感じました。
また、今西氏はそう言っていないかもですが、広義では、人間による自然破壊やその後の自然保護(自然の人間化)が、進化のプロセスだと捉えているように思えましたし、徹底して人間と自然を分けたものとして捉えない、含んだものとして受け入れている視座のようにも思えて、新しい視点を得た感覚がしました。
さいごに
以前、2019年12月に発売された雑誌「WIRED」の内容について記事を書いたのですが、その中で合成生物学、ヴィーガンチーズ(牛のゲノムの中の牛乳タンパク質を生成する遺伝子配列を改良・合成して、それを酵母菌に組み込んだ。新たな機能をもった酵母菌は、発酵の過程で牛乳タンパク質を効率よく生成することができる。これを原料に使用したもの)といった話題が出てきました。
これも、自然の人間化と言えそうですし、他にはデザイナーズベイビーという生まれてくる子どもたちを遺伝子編集する未来についても書かれていて、こちらはもはや、人間の人間化と言えそう。
詳しくはこちらの記事を読んでみてください。
そう考えると、今西氏の言う以下の発言
この地表上にのこる自然は、おそかれ早かれ、いずれもみな人間化されざるをえない。
というプロセスが、人間という自然にまで手が及んできているのが21世紀だと言えるでしょう。
これは、1つには「進化」及びそれに伴う必然という立場もありますが、どこかであまりいい気持ちがしない感覚もあります。
あえて、100%人間化された自然や人間で溢れた地球、人間社会をイメージしてみる時間を、友人たちととってみる、そんなことをやってみてもいいかもしれない、と思ったのでした。
今西錦司氏に関連する記事はこちら。