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マルセル・モースのいう「文化の定義」と「オシャレは我慢」という言葉の共通項がある!?

久しぶりに書籍『万物の黎明』についての記事です。

文化とは何か、についてマルセル・モースが言っていたことが興味深かったので紹介します。

文化とは、事実上、拒絶の機構なのだ

中国人とは箸を使うがナイフやフォークは使わない人びとのことである、大人とはスプーンを使うが箸は使わない人びとである

これ(拒絶)が美的感覚ー芸術様式、音楽、テーブルマナーーにもあてはまることは容易に想像できるが、おどろくべきことに、応用すれば役に立つことがあきらかな技術にすら当てはまることをモースは発見した。

Kindle版p318より引用

「社会はたがいに借用しあって生きているが、借用を受け入れることよりも拒絶することでみずからを定義している

Kindle版p319より引用

(アラスカのアサバスカン族は、イヌイットのカヤック[ひとり乗りのカヌー]がじぶんたちのボートよりも環境に適していることがあきらかであるにもかかわらず、それを採用することを断固として拒絶した。〜中略〜また、イヌイットもアサバスカン族のスノーシュー[かんじき]を採り入れることを拒んでいた。)

イヌイットは、スノーシューを履いている人間にはじめて遭遇したとき、本能的に反発し、それゆえ考えを改めようとしなかったわけではない。スノーシューを採り入れるか採り入れないか、じぶんたちが考える自分たちのありようをどう表現するか、イヌイットは熟考したのである。実際、モースは、隣人とじぶんたちとを比較することで、人はまさに独自の集団だと考えるようになると結論づけている。

これらの内容を読んだ時に、ふと浮かんだ言葉があります。

それは、「オシャレは我慢」ということ。

他人から見て、気温に対して服装が寒いように思えたり、暑いように思えたとしても、当人の美学に乗っとったファッションをしている様子を表現した言葉と言えますが、このことはモースのいう文化に通ずるものがあるのでは?と思いました。

なぜ、より暖かくなる・より涼しくなる、言い換えれば機能的に役立つ服装を拒絶するのか?

その理由は、それらが自身のありたい姿の表現にそぐわないから。

ふと思ったのは、この話は、やりたいことを見つけるためにやりたくないことをリストアップしていくことにも似ているかも。

それらをひっくり返せば、やりたいことが見出せるという方法なのですが、転用すると役立つ・いいなと思っているが受け入れたくないことは?といった問いの答えを書き出していき、なぜそう感じるのか?を自問自答していくことで、「私の文化」のカケラを集めることができるのかもしれない。そんな気づきも生まれたのでした。


おまけ

「万物の黎明」について書いた記事一覧。「万物の黎明」は、とても興味深い内容ばかりなので少しでも伝われば嬉しいです。ぜひ見てみてくださいね。


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