【移動する学林 in 京都】参加レポート(1)
藤田一照さん(曹洞宗僧侶)の"仏教塾プロジェクト"、「移動する学林:Lifeshift Village」の京都開講第1回に参加してきました(2018年9月22日@京都府立文化芸術会館)。
〔"学林"で共有したい2つのQuality〕
仏教を"補助線"にして、これまで当たり前だと思っていた「自己、世界、人生」についてのパラダイム(思考や行動の前提としている枠組み)そのものを問い、吟味する(investigate, examine, ...)学びと実践の試み、「移動する学林:Lifeshift Village」。9月開講から次回10月開講までの1か月間で探究していきたい2つのQualityについて、一照さんがプレゼンテーションして下さいました。
①Negative Capability
18世紀のイギリスで25歳で夭折したロマン派詩人、ジョン・キーツが初めてシェイクスピア文学の中に見出し、帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)氏(小説家、精神科医)が源氏物語の中に見出した、
《わからないこと、不可解なこと、謎、神秘など、既知の手持ちの概念ではどうにも割り切れない事態に直面したとき、未知なるものの前で注意深く(with care)佇み、待っている能力。》
この能力は、文学・芸術創造の分野や、教育、依存症者のケアなどの医療・介護分野といった様々な方面に有用であるとして語られることが多くなっています。一照さんはアメリカで禅の指導にあたっていた時代に初めてこの言葉に出会い、「坐禅で起きている「既知と未知の"あはひ(間)"で佇んでいること」は、ネガティブ・ケイパビリティの稽古になっているのではないか?この概念は坐禅に対しても新しい切り口として持ち込めるのではないか?と気づきました。
従来私たちが経験してきた学校教育は、「何かをやって、できるだけ早く結果を出して、能力があることを証明する能力」を育ててきた側面がありますが、それはネガティブ・ケイパビリティの素質を寄ってたかってつぶしていたり、あるいは未熟なままに眠らせてしまっているかもしれない。
身体的な能力についても、未だ知られざる、気づかれていない力が眠っていて、そういった能力は、注意深く静かに待っていてあげないと出てこない、"シャイな能力"といえるかもしれません。
それに出てきてもらう(力づくでひっぱり出すのではなく)には、「そこに何があるか全く知らない、何が出てくるかわからないところで佇んでいる能力」が必要になってきます。
この「移動する学林」では、
「分からなさを分からないままに保留しておく態度」
を身心で参究する学びが展開されます。
②Paradigm Shift
20世紀アメリカの科学史家、トーマス・クーンが著書『科学革命の構造』で提唱した、
《認識や思考、判断、行動の前提としていた価値観の枠組みが劇的・革命的に変化すること。》
仏教という宗教も、その成立の過程で古代インドの当時の社会基盤となっていた身分制度や、常識となっていた世界観・宗教観などを、その構造はそのままに、意味づけを従来とは全く逆のものにした経緯があり、仏教を学び実践する人々にも、
「これが私(自己)だ」「世界はこうあるべきだ」「人生ってこんなもんだ」と思っていた"初期設定"それ自体を問うて、吟味する
というパラダイム・シフトを勧めています。
ほんとうの旅の発見は、あたらしい風景を見ることではなく、あたらしい目を持つことにある。(マルセル・プルースト)
「この世界で私が生きる人生」という事実はそのままに、その意味合いや見える風景が全く変わっていく「パラダイム・シフトした人生を生きる」ことへ向けての探究の場が「Lifeshift Village」です。
〔グループワーク:塾生と一照さんの「青虫問答」〕
仙台学林、名古屋学林と同じように、京都学林でも"ゼミ長"役の桜井肖典さんからの問いかけから、塾生と一照さんとの8つの"青虫問答"が始まります。
《桜井さんからの問いかけ》
あなたの人生の旅路は、なぜあなたを"ここ"に連れてきたのか、少し考えてみてください。
事前のhomeworkを通じたあなたの気づきや疑問についても、思いを巡らせてみてください。
そして、あなたはこの場にどんな〈問い〉や〈願い〉を携えてきましたか?
《問答1:availabilityとは?》
進みたい方向へと背中を押してくれる"マジックワード"。
でも、便利な言葉だからこそ吟味が必要。
どうしたら、もっとavailableになれるのだろうか?
《一照さんコメント》
ブッダは涅槃(nirvana)に達して「自由」を得た。
自由というのは、到達すべき"場所"とか得られるべき"もの"ではなくて、「方向性」や「状態」。17世紀イギリスの神学者、トマス・フラーが「神は名詞ではなく、動詞である」と述べたように、いまここの私がnirvanaの表現として「nirvaning (いまここでnirvanaがはたらいている状態にある) 」でなければならない。
その「自由」を細かく分析してみたのが、青虫本にある"三つの自由"。
その中のavailabilityは「ひとのリソースになれる状態にしておくこと。」
経典に「菩薩は不請の友」という言葉がある。
(維摩経「衆生請わざるに友となって之を安ず」)
持っている何らかの能力を発揮して、求められずとも進んで救いの手を差し伸べるその手前に、まず大事なのは、
Presence with Care (注意深さをもってその場に居合わせる)
これがavailabilityの本質であって、相補的にavailableで"あり合う"のが「interbeing」と言えるだろう。
《問答2:本来の自己とは?》
外から決められた"理想の自分"ではなく、「もと来たところへ還っていく」、ただの魂だったところへ戻る道は?
《一照さんコメント》
"本来の自己"というのも、探した先に実体的にコロッとした"もの"としてあるものではなくて、私たちの"ほんとうの顔"や、空の"ほんとうの天気"が時々刻々に変わり続けてひとつに定めることができないように、常に揺れ動いて「本来の自己ing」しているものなのだろう。探すためのサーチライトを、向かう先からこちらへと照らし返したら、いまの自分と違う"本来の自己"を探させようとしている何かこそに本来の自己が見えてくる。
《問答3:チーム川流れ》
流れにまかせてゆだねながらも、よくわからない大きな流れに巻き込まれようと乗っかりに行くような感覚を、どうリアルタイムで感じるか?
ネガティブ・ケイパビリティに佇む中で、何かが起きている…なんだかわからない流れを、どう取らまえるか?
《一照さんコメント》
ネガティブ・ケイパビリティに佇む中で起きている"何か"は、意識されることがない。川の流れを読むときに、考えて出すのが答えではなく、答えは状況にあって、状況にintelligenceがある。
仏教でいう"縁起"では、私たちの希望的観測の外では、起こるべきことしか起きていなくて、原因のないことは起きていないと説く。
What's happening right now?
問題を解決しよう、改善させよう、向上しようとする手前で、まずは、いま起きている状況を、できるだけ広い視野をとって、深い射程で、ありのままに観察する(如実知見)ことが必要だ。そこに、今まで考えたこともなかったあたらしい選択肢が見えてくるかもしれない。
「いまここで自らの内外に起きている状況を、価値判断を入れずに、深く細やかに観察する」マインドフルネスでは、深く細やかに観察させないようにしている何かにも気づいていくので、良いことも好ましくないことも、あらゆることがリソースとしてavailableに開かれる。それが仏教の「智慧 (Intelligence)」といえるだろう。
《問答4:「蝶」って、そもそも何?》
蝶としての自覚はあるべきか?
蝶としての"使命感"は、ちょっと重い…。
《一照さんコメント》
青虫が蝶に変容するときには「さなぎ」というプロセスを通過する。
さなぎの中では、青虫の身体を構成していた細胞や組織のうちのいくつかはそのまま残って、その他のものはドロドロに溶けて再編成される。
凡夫から仏へのシフトでは、身心で行ずる「修行」において、凡夫を凡夫たらしめていた材料が"転じて"、あたかも渋柿を太陽の光にさらして干した時に、渋味が日光で化学変化を起こして甘みに変わるようなメタモルフォーズが起きる。
青虫と蝶のいちばんの違いは、世界を眺める見かたの次元が増えること。
それまでの世界の見かたの次元に、あたらしい次元が増えると、判断や行動のあたらしい基準が立ち上がる。
人との関わりの中で、「好き or キライ」という2つの象限で世界を見ていたのが、「この人は役に立つ or 役に立たない」というあたらしい次元が加わると、それまでとは全く違う2つの象限で世界と関われるようになる。
蝶になること、蝶であること、蝶であり続けることというのは、その都度フレッシュにあたらしい次元をその場で立ち上げられることではないだろうか。
《問答5:"枠"について》
(何も書かれていない白紙を"枠"に見立てて示しながら)自己の内面を深く見つめていくにつれて、ある枠組みへのとらわれが外れたと思っても、また新たな枠に気づく。
枠組みを持っていることで、いま置かれている場から"一歩引いてしまう"自分がいる…。
《一照さんコメント》
枠があることで
1.得ること
2.失うこと
がある。
(1)人間は、依って立つフレームワーク(枠組み)がなければ、ものを考えたり判断したりすることができない。
(2)人間が生きる上で必要上生まれてきた枠組みは絶対的なものではなく、変えられるものだということを忘れてしまうと、枠にとらわれてしまって、見えなくなってしまうものや失われてしまう自由というものがある。
……枠があることで何が失われ何が得られたかというコンテンツから、何かが失われるプロセス、何かが得られるプロセスに視点を移すのが、Negative Capabilityの稽古としての坐禅といえる。
《問答6:青虫本 vs 現実》
分かっちゃいるけど、分離分断のヴィジョンで世界を観てしまう…。
青虫本の教えと現実生活とをどうやって折り合いつけるか…?
《一照さんコメント》
青虫には「蝶になりたい、変容したい」という内発的な欲求が内蔵されている→「仏性」
”There is no way to happiness. Happiness is the way.”
(幸せに至る道はない。幸せこそが道である」(ティク・ナット・ハン)
凡夫から仏へ向かうJourneyは、仏の国に向かって足を向けていたら、そこで仏国土に足を踏み入れていることになる。仏国土へのJourneyのいまここの一歩一歩に仏のQualityを実現しなければ!
職業観・働きかた観を考える時にも、「この仕事を達成した果てにある何かの"片鱗"が、いまここの仕事の中に現れていなければならない」という考え方がヒントになるのではないか。
身(行うこと) 口(話すこと) 意(考えること)のレベルに、蝶的なQualityをどう持たせるか…?そのQualityが備わっているかどうかをみる指標は「身心がラクかどうか」。
《問答7:変わりたい自分と、変化を拒む自分》
"頑固な私"ではない自分を探してモヤモヤしている…。
自分の現状を変えたい自分と、変えない努力をしてしまう自分が、同じところでグルグル葛藤している状況から抜け出したい。
より大きな場所から見たら、分かるのかな?
《一照さんコメント》
私たちの中にはいろいろな要素(コンテンツ)がスッキリと整理されずにせめぎ合っているもの。その要素は、個人史の中でも様々なコンテンツを取り込んでしまっているし、仏教の"輪廻"の観点からみても、これまで何度も生まれ変わり死に変わりしている中で蓄えられたものをもってこの世に生まれてきている。
どんな要素を取り込むか("私は頑固な人間だ"もコンテンツの一つ)ということと、すべてのコンテンツを載せた大きく深いプロセス、この区別ができれば、"頑固な私"というコンテンツの存在を認識しつつ、それを変えたい"声"に応えていくこともできる、というプロセスの運びに任せて生きていけるのでは?
《問答8:変化と"真化"》
私たちを取り巻く環境の変化、ライフステージの変化の只中にもどかしくある中で、どうやって次のステージへ、個としての存在を超えた全体の中へ人生を深めていくか?
《一照さんコメント》
「私はこう生きたい」という人生の願いが"authentic"で"genuine"であるかどうかは、何が担保してくれるのか?
神か、個を超えて包摂する"状況"か、人との関わりの中から出てくる促しか…?
「What is your 発願文?」
衆生(すべての生きとし生けるもの)の願いを私の願いとする
「私の外」へ"ほんもの性"を求めることができなくなった時代にあっては、mindからheart、soulへと、まだ私の中に汲みつくされていない、深く眠ったままのところへリンクしていく必要があるだろう。
私の深い発願を具体化するにあたっては、自らの中に"一本のマストを立てた状態"を持っていることが求められる。自分の中に垂直に立つものがなければ、波や風、個を超えた大きな流れに乗るための帆を揚げることができない。
〔ソマティックワーク〕
"safe and sound"な身体をめざして
講義後半のソマティックワークの時間では、体幹と四肢(両腕、両脚)、頭部が接続する関節を緩めほぐし合うペアワークを実修しました。ワークに先駆けて、一照さんはいつも坐禅や瞑想の実修の時に鳴らす"お鈴"を例にとって「身体の通りの良さ」を説明してくださいました。
お鈴は、中に何も詰まっていないからこそ澄んだ音でよく鳴り、深く遠い響きを残す。ところが、鳴っているお鈴に手を触れた瞬間に、響きは止まってしまう。身体の中の詰まりや滞りや緊張をできるだけ取り除いて、開放して、少なくしていって、健やかでよく響く身体をめざすワークです。
"施術"を受ける側は"全力で脱力して"、施術者に腕や脚、頭を完全にゆだねて預ける。施術者は体表面のさらに奥にある股関節や肩関節の滑らかさ、すべりの良さとflexibilityを感じながら、無理のない範囲で繊細に、複雑で立体的に関節を動かしていく。
〔瞑想実修:岡田式静坐法〕
たまたま参加者の中に実践者がいたことから、今回の瞑想では「岡田式静坐法」を実修しました。
明治から大正初期に生きた岡田虎二郎が創始した岡田式静坐法は、無念無想とか精神集中ということを考えずに、あるがままに行うという点で只管打坐の坐禅に近く、坐蒲を用いずに日常的な正座の姿勢で行なえるので、普段の生活にも導入しやすいのが良いと思います。(上の画像は、岡田虎二郎の坐相)
〔次回10月京都学林に向けてのhomework〕
① 「life in LIFEのagenda」を感じることができた、あなたの行為や出来事を日々探してください。「life in LIFEのagenda」を感じることができるためにはどのような態度が必要か、言葉にしてきてください。
② 岡田式静坐法を毎日5分以上実修すること。
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(筆者感想)
仙台(4月、5月)、名古屋(6月、7月)と巡ってきた「移動する学林」も、いよいよ"最終フェイズ"の京都開講。2か月をとりあえずのひとまとまりとして次の地へと移るスタイルは、毎月一度東京で開講されていた昨年までの仏教塾よりもテンポが早い感じがして、もうあっという間に京都学林を迎えました。
今回も、"育休中"の後藤サヤカさんに代わってカメラを手にして、談論風発な学びの雰囲気を写し取りながら参加させていただきました。
まったく思いもかけなかった関わり方で「移動する学林」に参加させていただくことになったことそれ自体が、私にとっての「life in LIFEのagenda」なのかもしれません。
「ほんとうの自分」を探す道程の先には「ほんとうの自分」はいない。それを探させようとしているのが"本来の自己"…。
あなたの人生の旅路は、なぜあなたを"ここ"に連れてきたのか…。「なぜ、ひろさんは仏教塾に参加しようと思った?」という問いをいつも回向返照しながら、サーチライトをこちらに向けながら、今シーズンの最後の京都学林まで歩みを止めずにいきたいと思います。