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なぜ世間の目は「発達障害=ADHD」なのか

昨今、「発達障害」というと「イコールADHD」と結びつける人が妙に多いように思う。
以前も書いたかもしれないが、基本的に発達障害、少なくともわたしの知るものは先天性で遺伝性、親族の誰かからの遺伝により後継されるものであり、生活習慣から後天的に「患う」ものではない。しかしADHDはその手の「症状」として見られがちなようにわたしには見えている。

わたしは発達障害外来で、「ADHDの気はない、おおむね高機能自閉症であろう」と医師から判断をされている。しかし「幼少期のわたしを語れる証言者」か「小学校か中学校の通知書」がなければ診断はできないという。
いずれも持ち合わせず、(プライベートを犠牲にして仕事だけに振り切っていることで)仕事に支障のなかったわたしは、数週間の検査の末、それならば不可抗力だ、仕方がないと病棟を後にした。
アンケートやIQテストや問診などに数週間にわたり取り組み、ADHDの気はないと言われ、そして幼少期を思い出してもわたしが多動な一面を見せたことはなかった通り、わたしはADHDではないと思う。

しかし高機能自閉症(ASD)の人間のほとんど(もし全員でないのならば)はADHDの要素を持ち合わせているとも言われているので、たしかに慣れない状況に立たされて、「今からこの20の業務を時間内に終わらせなさい」と言われたらADHDのような症状は発揮する自信があるし、現にする時はある。
「何も終わらせられない」「どこに注意を払ったらよいのかわからない」「一つのことをしていたはずなのに好奇心が他へ逸れて別のことを始めてしまう。戻りたいのに…今はこれが気になる」と、もちろん経験はある。
しかしこれは苦行以外の何物でもなく、なるべくその状況に陥らないようやることを極力少なくし、集中できる環境を作るようにする。外的要因により不可抗力な場合を除き、基本的にわたしの注意が各所に散漫する状況を早く解除しようと思わないことはない。

前の記事にも書いた通り、発達障害コミュニティでもIQがおそらく近いことが多いであろうADHDとASDは似ているところもあり、討議をよくするし「あるある」を共有して共鳴することもあり、「良きパートナーになる」と言われる組み合わせでもある。わたしもADHDの知り合いはいくらかいるが、良く動くなと苦笑しながらも、その行動力や好奇心の広がりは肯定的に、興味深く見ている。彼女たちの断固とした正義心も高く評価しているものでもある。

ADHDとASDの共通する特徴として「過集中」がある。
ASDの場合は興味がないこと(ほとんどのこと)には一切興味を持たない代わりに興味の範疇になると突然寝ずに、食べずに、休憩せずに、動かずにずっと同じことをしていられる。ADHDの代弁はできないが、過集中の部分は同じなのかもしれない。

わたしは過集中していないときは基本的に「どうでもいいな」と、たいして何に対しても興味を持たない。興味が持てない理由の一つに、外に一歩足を踏み出した瞬間から、音、光、色、動きすべてがうるさくて、情報過多で頭がパンクしそうな痛みを経験するからということがある。
目に入るものすべてに興味を持つようなことはなく、動くものが多く視覚聴覚情報が多いと空気が薄くなり頭痛を催す。なので情報をわたしの認知から抹消するしかなくなる。それが「どうでもいいな」の精神状態である。感性、感受性が豊かすぎるが故道を歩くだけでも苦しく、心や感性をオフしている期間も多くある。

何故わたしがこの記事を今日書き始めたかという本題なのだが、その過集中の部分だけを見てなのか、昨今わたしはよく人から「あ、だからADHDなの?」と言われる。

前述したとおりわたしはADHDである自覚はないし、ADHD的な動きをすることもない(現にADHDの友人と食事に行った際に瞬きをするたびに目の前にいたりいなかったりする彼を見てどんな速さで動いているのだと疑問に思ったほどだ)。

わたしはたしかに発達障害である旨は言うことがあるが、それを「イコールADHD」と無条件にされることに不信感と違和感を覚える。
「ADHD」というのは一つの症状や特徴の集合体であり、発達障害はまず全員ADHDであり、そこから細かく枝分かれしているわけではない。ADHDは発達障害の分類の一つに過ぎない。

それを「ああ、そういうところがADHDなんだね」と言われると、
「今咳をしたよね。風邪ひいているんだね」と言われているような気持になるのだ。

わたしが咳をしたのはハウスダストアレルギーかもしれない。気管支炎かもしれない。むせこんだだけかもしれない。肺炎なのかもしれない。風邪と言ってしまえば簡単だけど、風邪…とは限らないだろう。咳は風邪の症状だけど、と思うわけだ。

何がどうなっているのかわからずてんやわんやになっている人を見ても「ADHD」というご時世、発達障害で多動性がまったくない人に対しても「ADHD」というご時世。ADHDの幅が広がりすぎて、ADHDはそこではないだろうというところまでADHDが人口をカバーする認識が広がっている。

幼少期から自分の指を眺めているうちに休憩時間が始まり、終わり、人が去り戻ってきて授業が始まっていたようなタイプのわたしにはADHDと言われることに違和感しか覚えない(気を害しているわけではない。明確に違う二つのものだろう、と思うだけではある)。

ADHDが人々に親しみのある言葉になり、逆に過去に「アスペルガー」と言われていた高機能自閉症(ASD)があまり知られていないことで、似てるからこの人たちもADHDだろうと言われているだけなのかもしれないし、認知が広まっていないことで未知の人たちと化してしまっているだけかもしれないが、発達障害だと言葉に出すだけでADHD指定される現状はどう変わっていくのだろうと思わさせられ、ADHDだと思われている人口の、実は何割かはADHDではないのではないかと思う日々だという独り言の記述を残します。

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