ある商人の選択 森の奥の晩餐館
「是非、案内したいところがあるの。きっと趣向に合うと思う」、と陽子さんは言う。
彼女は運動靴で深緑の森の中をグングンと歩いて行き、私はハイヒールで彼女の後ろを追った。
季節は夏の真っ盛り、足元は砂利真っ盛り。
途中、美しい庭園カフェを通り過ぎた。咲き乱れる花の中でシャンパン・グラスを傾けている人々のシルエットが眩しかった。
陽子さんは赤い煉瓦の建物の前で立ち止まった。
ストックホルムの南に住んでいる人たちにとっては、かなり有名なところであるらしい。この建造物はかつて、百年前にはどのような用途で利用されていたのであろうか。
それは最後の章にて説明をさせて頂きたい。
その時までは邪推なく、単なるモダンな一カフェとして、建築様式とインテリアを鑑賞して頂ければ幸いである。
インテリア的には工業スタイル(インダストリアル・スタイル)と称されるものであろう。すなわち工場で使用されているような素材を使ったものであり、まったく媚びがない。
例えば以下の家具は、おそらく実際には古いものではないと思うが、古く見せるような技巧が駆使されている。
1950年代、1960年代をイメージさせるようなハンバーガーレストランなどにもこのタイプの家具が置かれていることが多い。このタイプはアメリカン・ヴィンテージとして称される時が多い。赤レンガの壁はブルックリンというスタイルを髣髴させる。
アメリカ映画に出て来るような高校の鉄製ロッカーは、ヴィンテージになると一基10万円ぐらいにものぼる時もある。そのため、
「昔、物置にあったあの古い机、椅子、ロッカー、箱、保存して置けば良かったなあ、今、売れば一財産出来たのに」、などと後悔する人もいる。
かといってそれを期待して物置のガラクタを捨てずに、何十年も保管するという選択肢は現代の断捨離傾向に反する。
カフェ売り場近くに掛かるランプは全てインダストリアル・スタイルであると思うが、売られているものは一般的なスウェーデンのコーヒー菓子である。
ところどころに「距離を保つことを忘れないでね」、と書かれた黒板が立てられている。
この国でも、ガラスケースに美しく飾られているケーキなどを時々見掛けるが、ガラスケースはインダストリアル・スタイルにはそぐわないのかもしれない。残念ながらこちらのカフェもあまり食欲をそそる雰囲気ではないが、閉店間際に飛び込んだため、片付けの途中だったのかもしれない。
こちらはこの建物の二階であるが、木の柱を、むき出しの金属で固定してある。ログハウスのような山荘の温かみはないかもしれないが、雰囲気はある。こちらのレザーソファにゆったりと腰掛けてコーヒーなどを満喫したら世間話に花が咲きそうである。
この階段の手すりなどもむき出しの金属であるが、その中にもデザイン性がある。この下の空間では80名ほどの招待客の結婚式等が催されることがある。
私の現在のマンションの照明器具はほとんどが真鍮のインダストリアル・スタイルであり、私は懐古情緒に溢れるこのスタイルが気に入っている。柔和なスタイルを好む人の中には首を傾げる人たちもいるが、住んでいる自分が落ち着いて暮らせればそれが最善なはずである。
上の椅子もインダストリアル・スタイルであると思うが、私は、素材としては真鍮(しんちゅう)を好み、シンプル過ぎるタイプも趣向に合わないため、このタイプは購入しない。
1910年築のマンションに住んでいた頃は、彫刻の美しいアンティークの木椅子を一脚1500円から5000円で購入したことがある。多くのアンティーク家具の価格は昨今、廉価で購入できる。写真上のようなシンプルなインダストリアル・スタイルの椅子でさえ、デザインの凝ったアンティーク家具よりも高額になる場合がある。トレンドという大義名分のもとに価格が吊り上げられた家具、小物は多い。
本来ならこのようなアメリカン・ヴィンテージ風の木目調のテーブルが欲しかったのであるが、テーブルは以前のマンションから、比較的新しいものをそのまま持って来たので今回は諦めた。
前述のように、この数年、このインダストリアルとアメリカン・ヴィンテージスタイル等を店頭で見掛けることは非常に多い。
しかし、北欧においても全ての一般家庭のインテリアにこのスタイルを順応させることが可能とは言えない。
例えば、中世に建てられた中古マンションなどは天井や壁にロココ調の装飾が施されていたりする。さらに、たとえばアンティーク調の上品な陶器は、金属むき出しのテーブルには合わない印象を受ける。
これらのスタイルは日本でもカフェ等で流行り出して来た印象はあるが、一般家庭ではどうであろうか。
こちらは、晩餐用のテーブルが申し訳程度に置かれている様相が淋しい晩餐室である。しかし、全盛期には500人の座客を収容していた大会場である。
そして100年以上前には、この晩餐室には、500人の座客の代わりにニトログリセリン形成に重要な成分である硫酸用の大きな鉛被覆チャンバーと濃縮器が置かれていた。この建造物の用途を何となくお察しになられたであろうか。
陽子さんは案内を続けてくれた。カフェを出たところには湖が広がっていた。
美しい湖が佇む右手を眺めながらゆっくりと散歩をする夕方も悪くないが、彼女が案内してくれたところは、私が全く今まで見たこともないような奇妙な景観であった。
左手の土手に埋め込まれていたいくつかのトンネルであった。トンネル内は上体を屈めないと通れない高さであった。
恐いものは非常に苦手であるが、せっかく案内して頂いたのでトンネルの向こうに行ってみた。
そこにはなんの変哲もない原っぱが佇んでいた。草が生い茂っていたため奥には行かなかった。
散歩道から一番奥まった場所はトンネルの代わりにコルゲート管が通路になっていた。このような穴の中をくぐる羽目になると事前にわかっていたら、ハイヒールは履いて来なかった。
コルゲート管の奥は別世界であった。
「ここにいろいろな人達が集まって音楽を聴いて週末ごとにどんちゃん騒ぎをしているの。大音響だからこの界隈に住んでいる人達には皆聞こえるよ」と、陽子さんは説明した。
さて、この穴はどのような目的で造られたのであろうか。
これらはかつては爆風穴であった。すなわちダイナマイトの爆発実験をするための穴であった。
1865年、ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベル氏はこの森の奥にてストックホルム・ニトログリセリン株式会社を設立した。
設立の前年、彼は町中の工場にてグリセリンを精製している時に大きな爆発事故を起こしていたのだ。そして不運な事に、その事故により21歳の弟を始め、その場にいた助手を失ってしまっていた。
それでも爆発媒体の実験を続ける意向を持っていたノーベル氏は、森と湖と岩に囲まれたこの土地なら仮に事故が起きても、被害は最小限に抑えられると予測しこの地を選んだ。
「楽しんでもらえた?でも本当に見せたかったところはまだあるの」
陽子さんと私は急坂を登って小高い丘の上に登った。彼女は五分おきに立ち止まって写真を撮っている私に文句ひとつ垂れず、常に笑顔で待っていてくれていた。
丘の上からは湖が遠方まで見渡せた。しかし、陽子さんは湖を見下ろして些か落胆している様子であった。
「天気が良い日はね、湖の色がエメラルドグリーン色になるの、本当はあの色を見せたかったのになあ。ごめんね」
アルフレッド・ノーベル氏。
死の商人と呼ばれながらも、人類に貢献した人たちのために築いた巨万の富を賞与として分けあたえる遺言を残した。
そしてこの森の奥には、他にも紹介させて頂きたいノーベル氏の遺物が数多くある。
硫酸工場が一世紀以上もあとにトレンディーなカフェに衣替えし、この場所で晩餐会および結婚式が行われることになろうとは、彼には想像も付かなかったことに違いない。
巨万な富を有したノーベル氏、資料に依ると孤独な性格であったらしい。果たして彼には、この丘に登って一緒に湖を眺められる陽子さんのような友人はいたのであろうか。
この一帯はWinterviken(冬の湾)と呼ばれる。
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