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400日

気がつけば400日ぶりのランニングだ。久しぶりに登場した下記の写真は僕の体の中。現在でもこの5本のボルトは僕の体の中にある。

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トレーニング中に怪我、緊急搬送、そして手術、3週間の入院。そしてこの砕けた骨を支えてくれているボルトの抜去はまだ出来ていない。退院しリハビリとともにすぐにサイクリングは開始した。12月からは無理のない範囲でレースにも復帰した。

けれどランニングは患部に対し打撃にも似た直接的な突き上げ&衝撃、負荷、患部をかばう代償運動、またはかばうことによる体のバランスの崩れなどに配慮し「(可能なら)しばらくは控えてください」という助言もあり、体に優しい自転車で機能回復を図ってきた。それでも少しづつ「ランニングも再開したいな」という気持ちも高まり、今夜走ってみることにした。

4km。たった4kmだ。あまり深く考えず体に任せ自然に走ったペースは約7分半/kmだ。しかし今はこれが限界だ。歩を進める度、ボルト周辺、特に、足と骨盤を結ぶあたりの腸脛靭帯がボルトをの上を行ったり来たりする音は、外に聞こえるのではないかという勢いで「ゴリ、ゴリ」という音を立てる。そして痛いほどではないが、違和感。これが現実だ。

けれど僕は走れている。あの様な、一歩間違えたら人工関節となっていた重度の骨折から、僕はこうして走れている。それがなんと素晴らしいことか。僕の周囲には運動を楽しんでいる人が多い。SNSもそうしたアクティブな話題が多い。そんな中には運動できる喜びを片隅に追いやり、例えば大会の有り様や、他者の有り様、そしてうまく自己実現出来ないことへの不満などを見ることができる。きっと以前は僕もそうであったに違いない。

けれど今夜、400日ぶりに自分の足で走れたことを考えた時、それがライフスポーツとして、自分の暮らしの中にあって、誰の力も、世話ににもならず、自分の意思で走るとこがどんなに尊いことかよく理解出来た。こうした行為への価値観はやはり相対的なもの(条件や相手や環境)などでその価値を定めることではなく、絶対的な価値にその根元はある様に思う。

僕はその姿がどんな不器用で、人からすればどんなにゆっくりなペースであっても、少し涼しくなった夜の道をヘッドライトをつけ、自分ひとりの世界で、自分ひとりのために走ることが出来、とても嬉しかった。元々そんなに走る方ではなけれど、大きな怪我があっても、いまだに体内にボルトがあっても、例え400日のブランクがあっても僕はまだ自分のために走り続けている。

それは大会があろうが、なかろうが、記録に残ろうが、残らまいが関係ない。それ自体がが自分の世界を広げていくという行為と同等だから。そう、きっとそうだから「やめる、やめないの話」ではない。ただそれだけだ。

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