老いてもコアは残る
家族の老いとの向き合い方の話。まず、うちの12歳シニアワンコの話から聞いてください。
元保護犬なのですが幼い頃にNPOの方にきちんと躾けられたおかげで、室内のトイレシートに隙間なく経済的におしっこするのが得意技でした。ところが最近突然、廊下でガンガンおしっこするようになりました。足腰が急に弱くなり、歩行がおぼつかなくなり、ケージから3メートル先の室内用トイレまで辿り着けないのです。
「廊下でシッコしないでー!」と叱りますが、本人はチロッとこっちをみてそのままシーっとやってしまいます。
片付けたと思ったらまたシッコの片付け。急いでいるときに気づかず踏んだりして、イラッとします。しかし元々シッコ上手だったことを思い出し、
「ここでやってはいけないと知ってるけどね、歩けないからしちゃうの」
と考えていると信じよう、と自分に言い聞かせています。注意しつつも、
「大丈夫、わかっているよ」
と伝えるようにしています。そうして信頼関係を保てると信じながら、老いていく姿を見守っていくことにしました。
実は少し似たような出来事が、かつてmy母(86歳)と私の間でありました。
認知症がどんどん悪化してきて、要介護2のときでした。ヘルパーさんに手伝ってもらうことが増えてきて、自分はまだできると苛立つあまり、ヘルパーさんや家族に騙されているのでは、というネガティブ発言が増えてきました。
「本当は、私のことを厄介だと思っているのだろう」
「早くあの世へいけばいいと思っているのだろう」
「私からできることを奪っているのではないか」などなど。
必死でケアをしている自分にはとてもこたえました。しかも、だんだん、すごい勢いで私に怒鳴ってくることが増えてきました。あるとき耐えかねたため、もっと信頼して欲しいという気持ちを込めて、大きな声でいいました。
「私が本当にそんなことすると思うのか。お母さんは私をそんな薄情な人間に育てたのか。自分が育てた子供のことも信じられないのか!」と。するとぐっと黙ったのです。
そして、その日以来、ピタッと、私に疑いの眼差しを向けることがなくなりました。My母のコアの気持ちとシンクロしたことによって、信じてもらえたのです。老いて行動がずれてきたときに、きちんと信じる。それが老いと向き合う家族にできることなんだ、と学びました。
また、My母にとって、子育ては自分の誇りだったということが助けになっています。いつも、子育てがとても好きだったと語っていました。子育てについて、楽しくて楽しくて、つらいことなんてないよ、と私に言い聞かせながら、育ててくれました。だから私もケアをするときに、お母さんと同じ気持ちだよ、面倒かけられてると思っていないよ、一緒にいれて、楽しいよ、常にそう伝えています。
My母は現在要介護4です。
自分から言葉を発することも、意見を言うこともなくなってきました。でもごくたまに急に私を思いやる発言をしてくれることがあります。
「先に風呂に入ったらいいよ」「ご飯たべたのか」など。
わからなくなる、できなくなるからといって、そうした元からあるやさしさや感情がなくなるわけではない。まるで砂浜で遊ぶゲームの棒倒しのように、心や記憶やできることが少しずつ少しずつ削り取られて、日々老いていっています。My母の、元は大きかった記憶や想いの砂の山が、今はペットボトル1リットル分くらいの大きさくらいしかないように感じます。でも大事な1本は、ずっと残っているのです。
自分は今50代前半ですが、きちんと生きる、そのために心を整えるって本当に大事だし、また、とても大変だなと痛感しています。そうした自分のコアを信じる誰かがいてくれるというのは幸せだろうな、と思います。自分には子供がいないので、私がmy母に感じているような関係は老後ないのかもしれません。切ないです。
それでも自分に残る最後の1本は大事にしていきたい。できるだけ、きれいですっとした一本でありたいものです。または、ガリガリ君やホームランバーのスティックみたいに「当たり」とか刻まれていたらいいな、なんて想像します。もし私の最期にたまたま近くにいた人が、私の棒を拾い上げて、「あ。これ当たりって書いてある」。そう思ってくれたら、人生は大成功なのかもしれません。
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