西郷隆盛1

ライフレコード003「君の名は?」西郷隆盛

維新三傑の一人、西郷隆盛。2018年の大河ドラマ「せごどん」の主役としても有名ですね。2018年の代表的な歴史人物として、西郷隆盛の人生をライフレコードにまとめました。

ライフレコードは人生を一周として円に描いたものです。中心に人物の顔があり、大きく三層に分かれています。一番内側の層が内面に影響を与えた成功体験や失敗体験、出会いや別れなど。真ん中の層は、学歴や職歴、昇進移動など、言わば履歴書のような多くの人が知ることのできる人物の外殻。そして一番外側の層は当時起こった社会的な事件や災害など、世相を表すような事柄を記しています。ライフレコードでは、この3つの層の相関関係で西郷隆盛の人生模様を俯瞰していきます。

大家族の長男としてのメンタリティ

西郷隆盛のイメージといえば、体が大きくて面倒見の良い兄貴分のキャラクターですよね。実際、隆盛は身分が低い武家の長男として生を受けました。弟が3人、妹が3人と7人兄弟の一番上のお兄ちゃんだったんですね。ある意味イメージ通りの家族構成です。
そんな幼少期の隆盛は、11歳のときある事件に巻き込まれ、右腕を刀で斬られて腕が上がらなくなってしまいます。薩摩藩は元々武勇が重視されていたお国柄。関ヶ原の合戦での「島津の退き口」をはじめとし、島津の武士たちは勇猛果敢な存在として知られていましたし、薩摩示現流という剣術が名を馳せ、幕末四大人斬りの二人(田中新兵衛・中村半次郎)までもが薩摩藩出身です。そんな薩摩藩において、腕が上がらずに剣術を諦めなければいけないというのは、大きな挫折であったことは想像に難くありません。隆盛は子どもの頃から体も大きく力持ちであったそうですから、その悲しみ悔しさはなおさらです。しかし、そこから武道ではなく勉学に切り替えて邁進していくあたりは、さすがのメンタリティです。長男(跡取り)ゆえの責任感なのでしょうか。
24歳の時に、祖父、父、母と続けて亡くし、一気に大家族の大黒柱となってしまった点も兄貴分としての隆盛のパーソナリティを作り出した要因の一つかもしれません。

隆盛は本当は「隆盛」じゃなかった!?

幕末の維新志士によくありがちなのですが、幕府にお尋ね者として追われていたからか、よく名前を変えるのです。あの坂本龍馬は「才谷梅太郎」「西郷伊三郎」などあり、木戸孝允も「新堀松助」「広戸孝助」などいくつもの名前を名乗っていました。同じように、西郷隆盛も実は本名は西郷隆盛ではなかったのです。

上記グラフを見ていただくと、隆盛と名乗っていた時期は人生のわずか14%、期間にしておよそ7年程度です。しかも、明治政府に届出を行う際に知人が間違って父親の名前を書いてしまったのですが、「ま、隆盛でもいいよ」という生来の大らかさで名乗ることになった名前なのです。隆盛という名前がこれほど流通した背景には、明治政府の正式な文書に掲載されているという点と、隆盛の人生最大の事件になった「西南戦争」時点の名前であるという点が大きいのかもしれません。
最も期間が長かったのは「小吉」で27%ですが、あくまで元服前の幼名なので、それを除くと元服直後から名乗っていた「隆永」が25%で最も長く、こちらが本当の名前だと言えそうです。一方、1862年頃から名乗っている「吉之助」は、明治維新の前後の最も活躍した時期に名乗っており、世間での認知度という意味ではシェア15%の吉之助も本名に次ぐ名前と言えるでしょう。ますます「隆盛」と呼んでいいの?と思えてきますね。しかし、本文では混乱を防ぐため、以後も隆盛と表記させていただきます。

西郷隆盛の人生のコアタイム

隆盛が最も表舞台で活躍した時期はいつでしょうか?1867年前後、明治維新のあたりでしょうか。実際に維新三傑と呼ばれるほど、自他共に認める実績を挙げたことは確かです。さらに明治政府の中枢として、学制や地租改正、徴兵令など多くの制度を整えています。そんな隆盛を作り上げたのは、20代の時期の経験が大きかったのではないかと推測します。そのターニングポイントとして、藩主・島津斉彬との出会いが挙げられます。斉彬が薩摩藩主になってからというもの、隆盛は急に重要なポストに就いており、江戸出張や京都出張が増え、そこで様々な人脈を作り、さらには主命で水戸斉昭や松平春嶽ら他国の藩主レベルの人物とも会うことができています。この時期、隆盛は最も仕事のやりがいを感じていた時期なのではないでしょうか。

しかし、良い時間は長くは続きません。自分を引き上げて様々なチャンスをくれた斉彬が急逝してしまったのです。隆盛は殉死を試みるほどに斉彬に心酔していたようです。斉彬の死後、一気に隆盛の立場は悪くなってしまい、奄美大島に流されることに。一時は許されるものの、実権を握っていた島津久光との折り合いが悪く、1年経たずに徳之島と沖之永良部島に流されています。遠流の身から隆盛を救い出してくれたのも、江戸や京都で築いた人脈と経験でした。薩摩には隆盛以上の人材がいなかったのです。そして復帰早々、禁門の変で実績を挙げてそのまま明治維新の中心人物へとなっていくのです。


誰にどのタイミングで出会うのかは、人生において大きな意味を持っているのではないかと思わされました。

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