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14日目:銀納義民祭① 357年前の勇姿が歴史を変えた大地の上で

江戸時代、年貢(税金)は米で納めることになっていました。
では、米で納められない土地は、どうしたのでしょうか。

 …

「米で納められない年貢を、銀貨で納めさてくれないか」
殿の住む御殿前で声を上げた、大保木村の16人が処刑された寛文4年(1664年)11月28日。

今日は銀納義民(ぎんのうぎみん)の日です。

注:今回は文章中に一部残虐な表現が見られます。苦手な方や食事中などの閲覧はご注意ください。

納税と闘い続けた大保木の村々

11時。大保木のキャンプ場、石鎚ふれあいの里のテントサイトの端に大保木村の皆さん、大保木にゆかりのある方々がお集まりになりました。
これから極楽寺の館長、顕彰さんがお経を読んでくださいます。

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私たちが集まった場所は、ひっそりと、だけどもしっかりとその存在感を示す慰霊塔の前。
私はその慰霊塔のわきに、どっしり構える石碑に目を向けた。

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銀納義民追憶碑です。
写真だと彫られている文字が読みづらいと思うので、石碑の右側に書いてあることをそのまま記します。

『今を去る三百五十年前
郷土四千の村民存亡の限界に立つ
原因は「租税をお米で」という法律にあり
義民相計り郷土の未来に安心を との悲願結集
覚悟の嘆願直訴に及ぶも極刑に処され散華す
あゝ義民十六尊霊は御柱となる
永久に 山 水 人 を守り給え』

私がここに来て初めて読んだときには、さっぱり意味がわからず。

これはつまりどういう意味なのかということを、そして銀納義民とは何なのかについての詳細を以下にまとめていきたいと思います。

———

時は江戸時代。愛媛県は伊予国(いよのくに)と呼ばれていました。
現在の西条市は、当時の西条市と東予市、丹原町、小松町の4つが合併してできているけれど、その合併する前の西条市(旧西条市)はその頃は西条藩という名で、大保木はその中に含まれていました。

その当時、大保木は「兎之山村(とのやまむら)」「黒瀬村」「大保木山村」「中奥山村(なかおくやまむら)」「西之川村」「東之川村」の6つの村で構成されていました。

今ではそれぞれから山や村という語が外れ、兎之山、黒瀬、大保木、中奥、西之川、東之川の6つの地名で大保木地区という一つの大きな集落ができています。

現在の大保木地区に至るまでには、6つの村が一度合併して大保木村になり、続いて西条市と合併して大保木という広い地区となって、という経緯があります。

昔6つの村で構成されていたとき、一番西条の街に近くて、加茂川の下流にあった平地の多い兎之山村は、広い田んぼや畑が確保できました。豊作の年には残り5つの村でとれるお米の総量と同じくらいの量のお米がとれたのだそう。

山の斜面にできた残り5つの村は、そもそもお米なんて育てられるような土地はなく、田んぼや畑を十分に耕すことができなかったのです。
それでも食い繋ぐために朝から晩まで子供も混ざって少ない耕作地で懸命に働いたという。

山で採れる作物と言えば、春にはわらびやたしっぽ(イタドリのこと)などの山菜もあるが、主に粟(あわ)や稗(ひえ)といった穀物、トウモロコシなどで、トウモロコシの粉を使った料理は『おつり』と言われ、催事などの際に食べられたそう。今では大保木を代表する郷土料理になっています。
※おつりについては明日以降書く、銀納義民②の記事で取り上げる予定です。

白いお米のご飯は、ほとんどの人が口にしたことのない、得ることの難しいとても高価で貴重なものだったのです。
お米がとれないことを街の住人に馬鹿にされたこともあったといいます。


「米が取れないのに年貢を米で納めるのは大変だ」
当時、大保木の中から上がるそんな声は珍しくないどころか、日を追うごとに大きくなっていったよう。
中奥山村の庄屋、当時33歳だった工藤治兵衛(くどう じへえ)は、このままでは村人の生活が苦しいままだと思い、いよいよ立ち上がります。
(庄屋というのは、今でいう自治会長のような立場を担い、近隣の人たちの相談にのったり、世話をしたり、他の村々や役人ともやり取りを行う人のことです)

年貢を米で納めるのが厳しくなったのは、なにもこの頃になっての話ではありません。
「年貢を銀貨で納めさせてください」
その想いを綴った嘆願書(果たしてほしい願い事を書いた手紙)を初めて当時の松山城の殿様宛に出したのは、徳川家康が江戸幕府を開いた年、1603年のことで、それから61年間、何度もひたすらに手紙を出し続けてきたのだといいます。

それでも当時は庶民の願いが聞き入れてもらえるような時代柄ではありませんでした。
ついに、治兵衛さんは発起人となり、大保木の村人たちに声をかけ、一緒に御殿へ出向いて直接願いを言ってこようと動き出したのです。
つまり、直訴しにいったのです。

記録から考えるに、大保木村を出たのは10月19日だと思われます。
治兵衛さんと行動を共にしたなかには、同じ中奥山村の女性を除いた一家と大保木山村の庄屋の息子、そこの村人たち、黒瀬村の村人たち、さらに治兵衛さん自身の女性を除く家族の、合わせて15人がいました。

治兵衛さんには、15歳、13歳、11歳、9歳、さらに1歳の息子たちがいたが、
このうち、9歳までの4人の息子と治兵衛さんは街まで連れ立ったのです。その中には事情を全く把握していない子供もいました。


払わないと言っているわけでも、安くしてくれと言っているわけでもない。
自分たちの住む村では米が栽培できないのだ。だからどうか年貢は銀貨で納めさせてもらえないだろうか。

治兵衛さんは御殿へ着くと、門の前でそのようなことを告げ、16人皆で一緒に地面に頭をつけて、懸命に土下座をしたのだという。中には泣きながらする者もいたそうだ。

けれども、事も空しく、やってきた役人たちに無礼者だと取り押さえられ、御殿の奥の牢屋に放り込まれました。
当時、西条藩の殿であった一柳直興(ひとつやなぎ なおおき)という人は、なかなかに頑なで幅を利かせている人であったと聞いています。

それから一か月以上、牢屋に閉じ込められている間、多少のご飯の提供はあったようで、その際に御殿で働く人々が気遣ってくれることもあったといいます。
けれどもやがて、なんと治兵衛さんの1歳の子までも牢屋に連れてこられたのです。    ※この1歳の子に関しては諸説あり、公民館へと続く赤い橋(千野々橋という)の手前で首をはねられたという話もあります。現在その場所はバス停「ふれあいの里」になっていて、すぐそばにお地蔵さんがいます。そのお地蔵さんは林蔵を想ってつくられたとも聞いています。


そうしてある日、何の取り調べもないまま、牢屋にいた彼ら全員に、打ち首が言い渡されました。
うち、治兵衛さんと家族以外の誰か一人だけは無罪放免を認めるとのことで、大保木山村の平左衛門(へいざえもん)が助命を受けることとなりました。

そして夜中から雪が降り始め、大雪となった寒い朝、11月28日。
治兵衛さん含め15人は、この世を去りました。

———

人々の生き様と、もたらしたもの

これが大保木に伝わる銀納義民のお話です。

資料には、直訴の出発前に滅多に食べることのない白米のご飯を食べて別れを惜しんだとあったり、
聞いた話では、打ち首の際、子供にみかんを与えて食べているところを斬ったら、首からみかんが出てきたということもあったというし、

知るにつれて…悲しい気持ちが増してくる。

それが本当だとするのなら、
なんて耳の痛い話だろう。

こうした話は何も西条市の大保木だけのことではなく、全国にもある。
その多くが日本史の授業時に学習する、一揆というものです。
その際の嘆願書の内容というのは納税額の減額や免除などで、斧や鉈を振って攻撃するという形で意思表示がなされてきました。

けれども大保木村の人々は一切の武力無しで、忠実に、米の代わりに銀で、と書面にて訴え続けてきたのです。

この時代、米は金銭と同等かそれ以上の価値あるものと見られていたため、銀といった銭など興味はない、それより米だ、という人も多かったそう。
だがしかし、江戸も中期に入ると、ようやく三貨(金、銀、銅などの貨幣)が注目されるようになり、その頃から活発に銀は使われ始めたのだという。

じゃあ、もうちょっと治兵衛さんたちが遅かったら、認めてもらえたのだろうか…。
ていっても、生活も懸かっているし、そうもいかなかったのだろうが…。

治兵衛さんたちは、あくまで米とものを同等に交換しようとしたわけだ。
銀貨だって大事な財産であっただろうし、いくら山でだからこそ取れる山菜や作物、イノシシやシカの肉などを売ることで稼ぎを得ていたといっても、大した額にはならなかっただろう。ご飯は毎日、満足いくまで食べていないとの記述も資料にはあった。

彼らは、自分たちを贔屓してもらおうという考えもなく、力づくで抑え込もうとしようともせず、身分違えど最後まで対等にやり合おうとした。

そういう心の持ち方から大保木村の人たちがどんな人たちだったのか、どういう人たちによって、この大保木の土地が活かされ続けてきたのか、そういうことに気づかされるし、考えさせられる。

もしかすると、多分、子供は違うかもしれないけれど、治兵衛さんたち一行は、わかっていたんだと思う。いや、決めていたのかもしれない。
自分たちが斬られることを。

自分たちが御殿で叫ぶことで、もう、その身の保証などないのだ。
だけれどもそうすることで、自分たちの命と引き換えに、この世の中が、納税に苦しむ全国の山奥の村々や人々が、大保木の村が、変わるかもしれない。
そう思って、自らが口火を切るように門を叩いたのかもしれない。

そうまでして叩いた門は、やがて開けた。
嘆願し続けた結果が、資料には以下のように記されています。

治兵衛ら一六名が処刑された翌年、一柳家は幕府の裁定により改易となり、直興は加賀前田家へお預け。西条藩は天領つまり幕府直轄地となり、五年後に、家康の十男にして紀州藩主である徳川頼宣の三男・頼純が、松平姓を名のって西条松平初代藩主となった。        大保木山村へ生還した平左衛門は、斬首された一六名を供養しつつ、実弟の吉左衛門をたてて五ヶ村をまとめ、ひきつづき銀納実現にむけて努力しつづけており、頼純が藩主となった同年、ついに銀納が認可されたのである。   初めて嘆願書を出してから数えれば、じつに六十七年めの大願成就であった。

この資料を手掛けた、菅靖匡(かん のぶただ)氏に話を伺うと、彼が言うには、この打ち首について幼い子の命まで奪ったことが噂となって幕府に知れたことが、こうした動きが起きるきっかけとなったのだそう。

そしてついに、年貢は米ではなく銀で納めることが認められるように。
一揆の多くがなかなか実を結ばない中、長年送り続けた嘆願がようやく飲まれたのです。

自分の身に代えても、大保木の人たちの生活を守りたかった治兵衛さん。
山があって、そこに水が流れ、山や水の幸がもたらされる。
そうして人が住んで生ける場所となる。

大保木を守ることが、山と水と、そして人を守ることにつながると信じていた。

それが、最初に載せた石碑の左側に込められた意味だろうと思います。

そんな村の窮地を救った英雄に対して、村は細野という所に治兵衛堂をつくりました。

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そのすぐわきに治兵衛さんの墓があり、最初にお参りをした慰霊塔やこの治兵衛堂に彼らの魂は祀られています。

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慰霊式の後、向かった治兵衛堂でろうそくを灯した際、ある方から興味深いエピソードが。

「今、ろうそくが上下に、ひゅんひゅんひゅんって動いてるやろう。あれはご先祖様が喜んでおられるときに起こるんじゃ」

普通、ろうそくは風を感じて横に揺れるか、全体的にふわんと揺らめいているかだと思う。よく見ると確かに、周りで何も動いていないのにろうそくの火だけがすごい速さで縦揺れしている。

お参りに参列された皆さんも、本当だねえ、喜んどるんかぁ、と口々に言っていた。
この現象には諸説あるのかも?しれないが実際のところはわからない。
けれど、長年お参りしとるからわかるんじゃと、いざとなればお経も唱える方が言うのだからそうなのかもしれない。

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人のために命懸けで努力した人々のことを、心からの尊敬と感謝を込めて、義民と呼びます。銀で納税をすることを認められるようになるまで奔走した義民。

彼らがいたことを知る人たちから、今日、大保木で生きる人たちは皆、彼らを銀納義民として崇め、一年に一度、11月28日に大保木の未来を切り開いた勇士を偲ぶのです。

この話は多くの人に知ってもらいたい

実はこの銀納が許可されたのを機に、全国のあちらこちらで米以外での納税が認められるようになっていったと言われています。

けれどもそのことは、学校の教科書には書かれていません。私も学生時代にこのような話を聞いたことはありませんでした。

なんで教科書に載ってないんだろうね、という言葉を誰かが口にしたのを聞いたとき、私もそこで、確かにそのあとの時代を変えるようなことでありながら、どうして教育の場に登場しないのだろう、この話はしてもいいのでは、と思いました。

もちろん、教えがあるかどうかは地域や学校や先生などによりけりなのだろうが、それにしても資料集とかには載っていたら嬉しいし、西条市内の学校では何かしら話があってほしいものだなと思います。


最後に一言、断りを入れておくと、私が今回参考にした資料は、銀納義民350周年記念事業により発刊された資料『銀納義民伝』であり、そこには、寛文4年11月28日に16名が銀納を直訴し処刑されたことだけは、ほとんど確かな事と言えるが、その前後のことは確固たる証拠につながるものは現在確認されていないため、あくまで筆者も他の資料や歴史的書物を参考にしながら文章を記述しているとある。

彼ら、治兵衛さんらの活躍が明確に記録されている決定的資料は今のところはないとのこと。

歴史と生きてる、歴史の苦手な私

あの…、ここまで書いておいて大変言いづらいのだけども…私は歴史が苦手です。
いつどこで誰が何をどうしてどうなった、ということが、もう、情報量が多いというか、ぐちゃぐちゃになって、頭に入ってこない。

歴史は一個一個を覚えるというよりも流れで時代を掴むんだとか聞くけれど、それがちゃんとわかっていないんだろう私はけっきょく、数字と名前(漢字)と出来事(タイトル)の情報を詰め込むような、ザ・暗記に走っているような人だった(笑)

今では、単発で起きた出来事は知っていたり、名前は聞いたことがあったりはするが、何がどういう内容のもので、次に、そして今にどうつながっているのかはもうあやふやである。

そんな私だけども、今回、銀納義民祭について書くにあたり、
これは大保木を、そしてこの銀納義民をちゃんと知らなければいかんな、という気持ちになった。

同時に、せっかくこのnoteを読んでくださっている方がいるからには、銀納義民のことをちゃんと知ってもらいたい、ちゃんと書かなければいけない、という気持ちもあった。

そうでなくても、大保木のことを知ろうと思ったら、これは避けて通れない、知っておくべき内容である。
どっちにしろ、この土地の理解において今後いくつか書物に手を付けていかなければいけない。それならば、事あるごとに調べてまとめて学んでいけばいいのだと思ったことも、本を手に取り、きちんと流れを把握した上で文章を書くきっかけとなった。

(それにしても、そんなに年号等々ごちゃごちゃしていなくて、大変わかりやすく、だいたい要所のまとまっているものがあってよかった。。でなければ、途中で書くのをやめていたかもしれない…)

皆様、キャンプ場石鎚ふれあいの里でテントサイトを利用した際には、この内容を踏まえた上で、写真の塔と石碑を是非ご覧になって想いを馳せていただければと思います。

治兵衛さんたちは、まさか徳川家の直系の孫が西条藩を取り仕切るようになるという形で願いが叶うなんて夢にも思っていなかっただろう。

けれども、努力はいつか報われるものだ。
願いが叶うよう、一心に誰かを思い、何かを思い、そのために必要な言動を続けていたら、願いは必ず叶うものだ。

そんな姿をどこかの誰かは見ている、そんな人をどこかの誰かは応援している。

そんな大切なことを私は教えてもらった。
こうして毎年この日を迎えると、私はまたその教えを思い出すのだろう。

357年前からずっと変わることなく、多くの人の足跡を残してきた、この大地。

私は今日も、大保木の土を踏む。


銀納義民祭② 郷土料理『おつり』編はこちら↓






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