リトアニア、カウナスという街
リトアニア第2の都市、カウナス。ここが私のアナザースカイだ。
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私は出身地や地元を聞かれると少し困ってしまう。長野で生まれ、2歳までは広島、幼稚園と小学校は横浜、中高で再び広島、大学時代は東京で過ごした。人生の要所要所の区切りで住む場所が変わっているため、特別に思い入れのある場所がないのである。
長野は祖父母に会いに行くくらいで特別詳しくはないし、長く住んでいた横浜でさえ今では私の記憶に残っている面影はあまりない。広島はというと、根っからの広島県民である友人たちといると自分はどこかよそもののように感じてしまう。ここで自分のアイデンティティが形成された!と言い切れる場所はよくわからない。
そんな私が、今でも愛着をもっているのがリトアニアのカウナスという街である。
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首都ヴィリニュスの街は迷路、カウナスは一本道だと例えられる。確かにカウナスの街は写真のライスヴェス通りを中心に栄えており、観光するならこの通りに沿って歩いていけば新市街も旧市街も楽しめる。この単純明快さが大好きだ。
通りにはおしゃれなカフェやレストラン、雑貨店、本屋、劇場、郵便局などがある。自転車用の道も整備されているので歩きやすい。通りにあるベンチではひと休みする人や楽器を演奏する人もいる。ゆったりとした時間が流れている。
ときどき銅像や謎のオブジェがある。このように可愛らしいいたずらがされていることもあって癒される。
街を歩いていると思わぬところで不思議なアートに出会うこともある。見つけたときは驚きもありつつ嬉しくもなる。アートを探しにふらふらと出歩きたくなるものだ。
カウナスはそれほど大きな街ではない。ライスヴェス通りを中心とした、至ってシンプルな街だと思う。しかし、散在する独特なアートに加えて私はこの街の歴史にも魅力を感じている。
15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業都市として栄えた歴史をもち、旧市街にはそのころの建築物も多く残る。また、カウナスは第一次・第二次世界大戦時にはリトアニアの首都であった。日本領事館もあり、杉原千畝の「命のビザ」のエピソードの舞台となった街でもある。今でも杉原記念館として建物が残っている。
戦後には首都はヴィリニュスに移されたが、ソ連からの独立を訴える抗議活動が起こりライスヴェス通りで多くの血が流された。このことは映画『エミリヤ 自由への闘い』で描かれている。
このような激動の歴史が息づくと同時に、キリスト復活教会やチュルリョーニス美術館といった現代的な建築物もある。教会だけでなくモスクやシナゴーグもある。ネリス川の三角州と旧市街のはずれのネリス川とネムナス川が合流するところには自然豊かな公園もある。歴史と現代が混在し、すぐそばには自然がある。そんなところが魅力的な街だ。
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カウナスは私の人生に多くの出会いをもたらした街でもある。語学留学とはいえ日本人の割合は少なく、かなり多国籍なプログラムだった。
私はここで中国人、香港人、韓国人、アメリカ人、フィンランド人、イタリア人、フランス人、ドイツ人、ラトビア人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、カザフスタン人、ブリヤート人、ジョージア人に出会った。ここまでたくさんの国の人と出会ったのは初めてだった。
リトアニア語はヨーロッパにおいてもあまりメジャーな言語ではないし、リトアニアが経済や化学の中心というわけでもない。それなのにこれほど多くの国から人が集まってきているというのはおもしろい。
リトアニア語を学ぶという共通の目的をもちながら、各々の文化やバックグラウンドについて話したりもした。中でも、韓国人と香港人、フィンランド人の友人とは今でも交流が続いている。この留学以降、国際情勢にも敏感になったようにも感じる。
そして私はリトアニア語を卒業論文のテーマにもした。大学に入ったものの、高校時代の部活で燃え尽きたのかあまり熱中できることを見つけられなかった私が、やっと一生懸命になれるものを見つけた。だからこそ、カウナスが私にとってのアナザースカイなのだ。
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いつかまた訪れたいところを聞かれたら迷わずカウナスを挙げる。あのときはまだ英語と拙いリトアニア語で過ごしていたが、次は流暢にリトアニア語でコミュニケーションをとれるようになっておきたい。それが今の私にとっての大きな生き甲斐になっている。
最後に、夕暮れの聖ミカエル教会を添えて。
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