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共通ルートの午後へ!〜やったことない美少女ゲームのOPEDを聴くのは如何なる体験か考えてみた〜

すぐ背後(そば)にいるのに

和田たけあき『うらめしヤッホー』


はじめに:幽霊性について


美少女ゲームのOP・ED曲を聴くのを趣味にしている。曲と言っても色々だが、特に「まどそふと」のそれのようなポップで明るい曲が好きだ。こんな曲2曲目)。聴いてもらえると分かると思うが、独特の感慨が湧いてくる。確かにノレるのだが、どこか白々しいような……。そしてそうした感想は、キャラクターやひいてはそれを見ている自分にまで転写される。キャラクターも、自分も、幽霊に思えてくるのだ。どういうことか。

まずはキャラクターについて。この目の前に映るキャラクターは、ゲームをやったことがない以上「無限」の可能性を秘めている。しかしながらやったことがない以上、端的には「無」でもある。そうすると無限と無の交差……のような仰々しい話を連想したくもなるが、ここでのそれはもっと弱くて具体的なものだ。

先ほど「無」と言ったがそんなことはなく、見ているとあれやこれやの妄想が膨らんでくる。このキャラはシリアス展開がありそうだなといったことに始まり、主人公と親友のダブルデートで胸元にアイスクリームを落としそう(友人は大興奮だが主人公は無反応)、更には「赤いマフラー」がとってつけたように工夫されたキーアイコン("人間関係のほつれ"を象徴していたのが最終的には主人公との"赤い糸"になるとか)になりそうだとか、そうしたくだらない妄想——それも自分から湧き出たというよりも自動的にそう湧き出されたかのような——に汚染される。

するとそのキャラは自分の遠く届かないところにいるようなのだが、ある意味卑近すぎる距離に位置してもいる、という意味で掴んでは消える幽霊のように思えてくる。そもそもキャラクター自体が幽霊だという見方もあるが、それに関しては再度取り上げます。

次に自分について。ゲームをプレイしていれば、このキャラとはあんなこともあったなと、たとえそれが物語的な詐術だとしても、確固たる地位から安定した存在者として画面を眺めることができる。しかし、自分はゲームをやったことがない以上、ここで画面を眺める必然性がない。別の言い方をすると、ここで送られている視線が自分のものである必然性がない。誰かのものではある、しかし誰のものでもない視線……。

これを読んでくださってる皆さんの中には、OB・OGとして高校の廊下を歩いている時、自分が幽霊のようだと感じたことはないだろうか。あるいはもっと分かりやすい例として、どこか遠くへ旅行に行った時に。ただし、やったことがない美少女ゲームのキャラクターは高校や旅行地が存在しているのとは違うしかただ存在している(存在しない、とは言わない)以上、それを見る経験は「旅愁」とは決定的に異なる。

なるほど、ここにきてこの経験は「vaporwave的なもの」に回収するかに見える。キッチュでジャンクな表象、存在しないものへのノスタルジー、いまだ現前しえぬ過去(!)へのオープニングあるいはエンディングテーマとして……。

しかしながら、ここで言う経験はそうした「ノスタルジー」を必ずしも必要としないことを指摘しておかなければならない。リバーブ云々とまで言わなくとも、冒頭に貼った楽曲や、展開がweezerのバティ・ホリー並に素晴らしいこの曲から分かるように、ノスタルジー的な感覚は希薄だ。

(——では、このキャラクターたちは"いつ"に属しているのだろう?過去でも未来でもない。しかし"今と言うにはいま巷に溢れるアニメ的表象からもズレている、つまり別のベクトルを向いた時間に属してる、という意味では「永遠的対象」であるだろう……)

清潔感と歌詞について


本題へ戻ろう。実際に楽曲を聴いて驚かれた方もいるかもしれない。ここには性的なトーンが希薄で、あえて言えば奇妙な「清潔感」があるのだ。確かにたとえばこの曲はベースラインが印象的だが、いわゆる「腰にくる」感じではない。また前述した曲ではお馴染みの「合いの手」が用いられているが、トラップにおけるアドリブのように高揚感に奉仕している印象が強く、「萌え要素」は希薄だ。

もう少し深掘りしてみよう。妹二人にスク水を着させる、というなかなかに生産性のあるコンセプトのこの曲(fripsideのサイドプロジェクトである)ではスク水にまつわるディティールが語られており、確かにフェティッシュだと捉えることはできる。しかし、「スク水」という合いの手を繰り返し聴くうちに、フェチが摩耗し、擦り切れていくような印象を受けないだろうか(なお、この文のような体験をしたい場合、エンドレスでリピートすることを強く薦めます)?

美少女ゲームであるにも関わらず、薄い性的ニュアンス。さらに踏み込んで言うなら、ここには「他者性」すらも希薄に思うのだ(もちろんそうでない曲もあるので、それは後述します)。恋愛物だと言うのに?先走って表現すると、確かにその歌は画面の向こうの"キミ"に捧げられているのだが、異様な高揚感で"キミ"に届く前に意味が雲散霧消仕掛かっているように見える。

具体的にサビを抜き出してみよう。<さぁ行こう!一緒なら(いつも)/全部がきらめいちゃって/どうしよう 気になる(なっちゃう)ことばっかりだよ/気まま まぁいっかて(やっぽーん)/たまに欲張っちゃって/スマイルをコレクション(げっちゅー)/もっともっと集めたい!><ときめき常夏ランデブー/一切合切ドキドキも詰め込んで/灼熱baby恋しましょ/考えちゃだめだよ(だからもっと)/Sunshine(high)/そうだ(high)/全部夏のせいにして/もっと(high)/Love me(high)/甘い罠に飛び込んでみたい>、さらにアントナン・アルトーによるルイス・キャロルの朗読を彷彿とさせるこの曲の<Wonder in lips 涙のあと/Sweet magic 約束/Grace of loving 瞳の中/二度とない夏に kissして>

いわゆる「J-Popは紋切り型ばかり」と言うそれ自体紋切り型のフレーズが浮かびもするが、今少し注視してみよう。ここには<優しい嘘ならいらない>や<信じ合える喜びも/傷つけ合う悲しみも/いつかありのままに愛せるように>といったふくよかな意味を持つ言葉は不在だ(ここで豊かな意味を"色気"と捉え返すなら、上記した"性的ニュアンスの薄さ"に結びつくのがわかるだろう)。<全部がきらめいちゃって>や<Sweet magic 約束>とは、一体どういう意味なのか……?なるほど確かにそこには「恋の爆発的な多幸感」が表現されいるようなのだが、歌詞が具体的な情景や対象を失った結果、煙か埃のように弱く存在しているように思え……英作文でよく、<A (e.g., She) is B (e.g., busy)>という文に対し、<A looks B><A smells B>と置き換えるとニュアンスが出ていい感じになるという話があるが、そこでの「ニュアンス」だけが気配のように漂っているような……冒頭、美少女ゲームのキャラが幽霊的であると書いたが、この観点からも「美少女ゲームのOP・EDを見るという経験」が何か幽霊的なものにタッチしているというのは伝わるだろう。

附記。ヒップホップのフリースタイルを見ていると、その「何言ってるのか分からなさ」に感動することがある。即興なのでどうしても発言に脈絡がないし、韻に拘るあまり意味も通らなくなる。そんな言葉に首が動いてしまうのだ。私見では、パンチラインとはそうした不明瞭な言語の悪魔祓いに他ならず、本質的なのは言葉の「重さ」ではなく「軽さ」だと感じる。フローの洗練やあるいは文化的社会的オルグによって「恥ずかしい」ものではなくなったかに見えるが、本当は薄寒さも引き起こしているはずの言葉、小泉義之に倣えば「アンダークラスのエクリチュール」が美少女ゲームのOP・EDにも共有されているのがわかるだろう。こうした異様な言語運用は、私たちの「正常」な言語使用の異議申し立てになる。だから、それは普通の意味での政治性(聴衆のみなさん!私は安定した言語的運用のもと、正々堂々と文法的規則に則り、与党(野党)を糾弾することを誓います!)から最も遠いが、であるがゆえに根源的に政治的なのだ。本稿では、美少女ゲームのOP・EDが「幽霊感」を重視している。したがって、まとめると美少女ゲームのOP・EDは幽霊による政治的言語を表現していると捉えられるだろう。幽霊による政治的言語?いかにも思弁的な産物だが、現に、ここに存在していると言っておこう。

「女性的空間」と生成変化


今一度画面を注視しよう。先ほど、この美少女ゲームのOP・EDには性的なニュアンスが希薄だと書いた。その理由として、ここには主人公の——もっと言えば男性の影が薄いということが挙げられるだろう。主人公が出てくるこの作品(これ見よがしな冒頭のオルゴールが素晴らしい!)も同上だ。そこには敢えて言えば「女性的空間」が広がっており、そこで男性は借り物になっている印象を受ける。
(……ところで残念ながらプレイしたことがなので予想になるが、こうした貴族的なゲームは『プリンセスラバー!』や『メイドさんしぃしー』のように「尿」がモチーフになる作品が多い。貴族、あるいは洋館という閉鎖された空間からの逃走戦=尿ということなのだろうか?)

では、この画面は一体どういうものなのだろうか。そこに男性的な痕跡は不在で、かといって女の子たちの百合が繰り広げられそうな気配もない。挙げるならば「男性主人公の待望」だろう。男性主人公の待望……なるほど確かにそれは、主人公のファルスによって女の子たちが癒され、そしてそれによって我々が(性的に)癒されるごくありふれたヘテロ恋愛が刻まれているように見える。

しかし、別の見方もできないだろうか?繰り返しになるが、絵や音楽からここには性的(異性愛的)なトーンは希薄だ。そして画面には「女性的空間」が広がっているのだった。そこでの誘い……それはつまり、「女性になること」を誘っているとしたらどうだろうか?

主人公が男の娘になるとか、私たちが女装するようになるとか、そういう事態を指しているわけではないのは理解してくれると思う。どうしても冗談めかした形になってしまうが、要は、ドゥルーズが書きつけた「女性への生成変化」がここで起きているのではないかと主張したいのだ。ところでその本のタイトルから知られるように、生成変化を乱したくなければ「動きすぎてはいけない」のだった。ここからも美少女ゲームのOP・EDを眺める行為が、(その保守的で性的なヘテロ恋愛という外見に反して!)女性への生成変化に近いものであると言えるだろう。

会社から、学校から帰宅する。新生活で疲弊し、ロクに動くことができない。スマホをつける。「多様性」「セクシャリティの揺らぎ」が賞賛されるニュースが目につく。別段反論するわけではないが、考えることすらできない。そしてレコメンデーションのもと、Youtubeのトップページからかろうじて美少女ゲームのOP・EDを眺める——そんななけなしの行為にも、だからこそ生成変化へのチャンスが眠っているとしたら、どうだろうか。

付記。美少女ゲームのOP・EDといえば、KOTOKOの名前を挙げないわけにはいかないだろう。特にここで紹介したいのがこれだ。謎にロック調の音楽に合わせてKOTOKOが歌う。<それは遠くよその国の/遠く古いおとぎ話/愛探す旅に出た/小さな姫の冒険のStory><それでもついに突き止めた/ 願い叶うキスの在り処/愛の歌 口ずさむ/小さな姫の勇敢なStory>美少女ゲームOP・EDのその源流には、こうした少女趣味的な想像力があったということが分かるだろう。確かに、この話はオタク文化自体が少女漫画にベースがあるというよくある話のバリエーションにも見えるが、ここではその「他者不在感」を指摘しておきたい。確かに「キスの在処」の存在は示唆されるが、舞台装置として機能するに留まっている。恋愛モノの初めには他者の不在があったのだ。もっともこれは、『プリンセスブレイブ! ~雀卓の騎士~』という麻雀モノなので、いわゆる美少女ゲームの文脈からはズレてしまうかもしれないが。なお、ここでKOTOKOをリバイバル的にフューチャーした『NEEDY GIRL OVERDOSE』では、「天使のように〜 悪魔みたいに〜」というKOTOKO節こそあるものの、「他者」という観点からは共依存ものというニュアンスが強い。両者の異同について考えるのも有意義だろう。

幽霊性の補足:ギャグと人間関係の進展が入り混じるフィクションについて


この文章の最初の方で、美少女ゲームのOP・EDキャラは幽霊に近いと述べた。しかしそこでも補足したように、言ってしまえばキャラクター自体どこか幽霊のようでもある(存在しているとも言えるし、していないとも言えるので)。それでは、ここで論じる「幽霊性」の可能性の中心はどこにあるのだろうか?ここからは、美少女ゲームのOP・EDからは離れてしまうが、「ギャグと人間関係の進展が混ざる」漫画・アニメについて考えてみよう。

中期(特に8巻〜12巻)の『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』や『生徒会役員共』、最近では『メメメメメメメメメメンヘラぁ…』では、ギャグと人間関係の進展が入り混じる。ギャグかと思って読み進めているといつの間にか関係性が進展していたり、人間関係の更新を期待しているとギャグでかわされたりする。ここで挙げた作品はいわば「ウェルメイドな学園物」で、ギャグと人間関係の両立も作品の間口を広げるという狙いがあるのだろうが、ここではそれが奇妙な「時間論」を帰結することに注目しよう。

一方で、人間関係が進展する以上、それは「AがXを知った結果BがYという心情を抱き、それを見たCがDに対してZと働きかけ……」というように、なめらかに時間は進行する。言い換えれば、ここには「フィードバックがかかった時間」が流れている。しかし他方で、それはギャグ漫画でもある以上、「ギャグXが起きた。ツッコミののち、忘れられる。ギャグYが起きた。忘れられる。ギャグZが……」のように、離散的な時間、フィードバックがかからない時間も流れているのだ。「象の時間、アリの時間」という有名な本にあるように、時間には複数のスケールが存在する。そしてそれをテーマにした小説やアニメも数多く存在する。しかし、ここでは1つの時間が質的に(?)異なる2つに割れているのだ。

私は以前、『わたモテ』のファンコミュニティに属していたことがあるが、ここのもこっちのコマは「実際に起きたこと」なのか「ギャグのパッケージ」なのか論争がよく起きていた。そこで「原作原理主義者」は「全てを実際に起きたこと」として解釈するのだが、これはどこか倒錯した態度にも思える。「時間論」とまで噴き上げずとも、2つの「書き分け」がなされていることは拭い難いからだ。

それでは、そんな2つの時間に貫かれたキャラクターとはいかなる存在者なのだろうか?ページをめくってみよう。主人公が別のキャラと会話している。二人が過去の出来事に思いを馳せているのだが、そこでのフキダシは両者で違う捉え方をしていることを示しており、ギャグになっている。そして主人公が最近登場したキャラクターに話しかける。「実は淫乱」と明らかなギャグ(というか下ネタ)が書き込まれるわけだが、そうした会話が「会話」としてなされること自体が「人間関係の進展」として表現されているようだ……。

一見おっとりとした進行でありながら、目が滑る。混乱させられる。彼/彼女たちが何をやっているのか、どの時間に属しているのか、さらにはどの時間によって構成される存在者なのかが分からなくなってくる。このあわいの中で構成するキャラクターたちが、美少女ゲームのOP・EDのイラストに映るキャラクターたちと近いことは分かってもらえるだろうと思う。「幽霊的」と言っても、見た目が儚かったりするわけではないのだ。前者では2つの時間への同時所属によって、後者では無限と無(と紋切り型の妄想)の挟み撃ちによって、それぞれ幽霊的な存在へと近づいている。

「憑在論」との異同


幽霊について論じている以上、マークフィッシャーの議論について触れることが有益だと思われる。批評家マーク・フィッシャーは、哲学者ジャック・デリダの議論を引き受けつつ発展させる形で「憑在論」を提唱し、現代社会やポップカルチャーの分析を行なってきた。

憑在論(hauntology)とは、見て分かる通り存在論(ontology)をもじったものである。憑在論では、「普通の仕方では存在していないもの」、潜在的=幽霊的に存在しているものに焦点を当てる。本稿にとって重要なのは、そこでの「時間」の位置付けだ。『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 』では、潜在的に存在しているものは「蝶番の外れた時間」に属していることを示唆している。

普通の時間ではない、蝶番の外れた時間。美少女ゲームのOP・EDにおける「別のベクトルを向いた時間」を、ギャグと人間関係が混在する漫画における「二層に貫かれた時間」を指摘してきた本稿との親和性は自明に思われる。

しかし、必ずしも一致するわけではないというのがポイントだ。フィッシャーの議論を再読しよう。フィッシャーによれば、憑在論は二つの方向性があるという。一つ目は「もはやないもの、だがひとつの潜勢的なものとして効果をもったままにとどまっているもの」であり、トラウマによる反復強迫などの「過去に」抑圧されたものの「現在」への回帰が例示されている。二つ目は「いまだ起こっていないもの、しかし潜勢的なもののなかではすでに効果をもっているもの」であり、マルクスの議論を援用しながら、「未来の」共産主義体制の到来を「現在」待望することなどが挙げられている。

つまり、単純化を恐れず言えば、フィッシャーの憑在論における時間とは、その「ねじれ」によって特徴づけられると捉えることができるだろう。過去・現在・未来は単純な線的な関係にあるのではなく、複雑な関係性を持っている。いわばその相互作用が「幽霊」と呼ばれていると考えられる。他方、上で論じたように、本稿が捉えたい時間にはそうした「ねじれ」は希薄だ。踏み込んで言えば、その「ねじれ」を解放することにこそ力点が置かれている。

繰り返しになるが、美少女ゲームのOP・EDは独特の発展をしており「今の絵」とは言い難い。ただし、ノスタルジー的表象というわけでもない、いわば「別のベクトル」を向いた時間に属していた。また、ギャグと人間関係が混在する漫画では、フィードバックがかかっていない時間(ギャグ)によって、フィードバックがかかっている通常の時間(人間関係の進展)が脱臼されてしまう様が観察された。哲学者ジル・ドゥルーズが『意味の論理学』冒頭で論じた「現在から逃れる時間」の議論を念頭におくと分かりやすくなるかもしれない。

つまり、「蝶番の外れた時間」、そしてその帰結として生じる「幽霊」にはおそらく二種類あるのだ。

おわりに


ここまで、やったことがない美少女ゲームOP・EDのキャラが幽霊的であることを指摘し、また曲やイラストの性的ニュアンスの弱さや「女性的空間」の広がりから鑑賞者に生成変化を促すと主張した。そして、「ギャグと人間関係の進展」が入り混じる漫画を例に、「幽霊性」が時間論と結びついていることを確認し、マーク・フィッシャーの議論を下敷きにその時間性について精緻化を図った。

とはいえ、ここまでの上滑り気味の記述では、人を美少女ゲームOP・EDに引き込めないことは承知している。では、実際にはどのような鑑賞をしているのかをここでは素描しよう。Youtubeを開くと(鑑賞方法は色々あるが、特にYoutubeをおすすめする。ヒカキンや猫の動画の中に、無関係に彼女たちが存在しているという光景自体なかなか感動するものがある)、この楽曲がサジェストされている。fengという数多くの名曲を輩出してきたレーベルの曲だ。イヤホンを耳につける。

曲は静かに入っていく。<もしも 例えばの話で/あの日 ここで会わなかったら/こんな今 考えもしないよね>というそうとしか言いようのない導入の後、<そっと積み木を積むように/あなたを好きになったよ><当たり前じゃないけど/当たり前にしたいよね>と続く。ここに限ったわけではないが、ポイントはここだ。
ここまで、やや誇張的にどこか面白おかしく美少女ゲームのOP・EDの歌詞などを紹介してきた。これは、表現としてどうこうというより、「傍観者として接する」という方法的な問題から選び取ったものだ。しかしこの歌詞……恥ずかしながら、胸を揺さぶるものがある。楽曲構造にもぜひ注目してほしい。はじめはただピアノだけだったのが次第に楽器が増えて(ちょうど二人の関係が彩られるように!)楽曲が彩られ、サビでのストリングス大爆発へと繋がっていく——<やっと分かった やっと分かり合えた/こんな嬉しいこと ないよ>

おそらくここでの「分かり合えた」は本編のキーになっているのだろう。プレイしたことがあれば、その時の感動を楽器でリプレイすることができる。当然ながら、それは豊かな体験だ。しかし、プレイしていない場合どうだ?別になんとも思っていないのに、「分かり合えた」と言われる。ニヒルな気持ちにもなる。「恋愛とは互いの幻想を相手に投影している打明けであり、分かり合える時など永遠にこないのである」とも言いたくなる。

しかし、完全にニヒルに傾くわけでもないのだ。ここで楽曲や作詞が効いてくる。やったことのない美少女ゲームのEDをニヒルに眺めている自分がどういうわけだか多幸感に包み込まれていくのだ。このシニカルさと多幸感で訳がわからなくなる——前述の議論を受ければこれも「生成変化」の一端なのだろうが、それすらもわからなくなってくる——経験を皆さんも是非体験してほしい。

付記。この曲に興味を覚えた人は、ぜひそのOPにも触れてほしい。春の嵐のような疾走感が素敵な曲で、サビの入り方などは非常に興味深いのだが、ここで言及したいのは以下の一節だ。<明日 君を連れ去って/思い出さえ連れ去って/夢の先を見に行こう 待ってるさ/僕等のこと ずっと>

これは一体どういう意味なのか?なるほど、君と君の思い出とを連れ出して「その先」に行けば未来の僕らが僕らを待っている、とすんなり意味が通る。ただし、不穏なのは「思い出さえ連れ去って」だ。もちろん連れ去ってその辺に捨てる、という意味が込められているわけではないが、「去って」という言葉には、どこか消去するニュアンスが潜んでいないだろうか?君と思い出を連れるのだが消去的なニュアンスがかかる。ある種の健忘症的な状態で、「忘れていた」僕らに僕らが初めて出会うのだとしたら——?

……以上、意図的に強弁しているのはわかるかと思う。ただ、ここまで論じてきた「幽霊的」という角度から歌詞を捉えてみると、あれもこれも不気味なものに見えてくるのだ。美少女ゲームのOP・EDを見聞きする楽しみはここにある。ぜひ試してみてほしい。

参考文献

小泉義之『負け組の哲学』人文書院
千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出書房新社
ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』河出文庫
マーク・フィッシャー『奇妙なものとぞっとするもの: 小説・映画・音楽, 文化論集』Pヴァイン


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