意欲作! 『しかのこ』と「日常系」の違いについて考察してみた
はじめに
『しかのこのこのこしたんたん』は、いわゆる「日常系」とも異なる、独自の魅力を備えた作品なのか?
誰もが一度は抱いたことがあるであろうこの疑問に「Yes」と答えることは一見難しくない。第一に、「ギャグ」というトピックがある。『しかのこ』は破天荒なギャグを題材とした作品であり、「日常」にフォーカスを当てる日常系とは異なっていると。また第二に、これは作者のディスコグラフィーからも裏付けられるように思われる。作者・おしおしお氏は元々、日常系の宝庫である「まんがタイムきらら」で連載を持っていた(『神様とクインテット』)。それが現在、『しかのこ』を「マガジンポケット」で連載することになった。ここに「チャレンジ」があるのは明白である。推測にはなるが、作者はきららの外に踏み出すことで、きららでは描けなかった(描かなかった)ことに挑戦しているのだ……と。
しかしながら、毎週の放送をみるにつけ、どうも違いが見えにくくなっていることもまた事実ではないだろうか? 『しかのこ』に登場するのは可愛らしいキャラばかりだし、ギャグもいわゆるボーボボ的な「破天荒」さというよりは日常系的な「ゆるさ・たわいなさ」を醸し出しているように思えてくる。
どう考えれば良いのか? 本稿ではそこを探っていく。その際、「『しかのこ』と日常系の「類似性」よりも「差異」に着目することにした。考察を通じて、『しかのこ』の独自性を炙り出す。また、これを通じて、「日常系」とはそもそもいかなるコンテンツなのか再考することも狙いとしている。なお、筆者は単行本は未読のため、その点はご容赦いただきたい。
<個>と<集団>
『しかのこ』と「日常系」はどこが違うのか?ここでははじめに、「人間の捉え方」という一見深遠なテーマから考えてみよう。当然のことではあるが、私たち人は、一人一人が「個」として存在するかけがえのないものである。しかし他方で、人は学校や会社、さらには国家など集団の中に属する、あるいは集団として存在する生き物でもある。このように、人を「個」として捉えるか「集団」として捉えるかという二つの見方がある。そして、『しかのこ』と「日常系」とではこの捉え方が異なっているように思うのだ。
まずは「日常系」から見ていこう。一般的に、「日常系」は前述した「個」のかけがえのなさにフォーカスしていると言って差し支えがないと思われる。クラスやバンド集団の中に存在するかけがえのない存在にスポットライトを当てる、これが「日常系」の基本的な作劇だと言えるだろう。たとえば「日常系」には、基本的にはロボットアニメで見られるような「◯◯軍」など、「集団の論理」で物語が展開することは稀である。確かに「ごらく部」や「情報処理班」などの一種の集団が作られることはあるが、それはあくまで小さなスケールであり、そこでは集団における個々の違いを際立たせるための舞台装置である、と言っても言い過ぎではないだろう。
他方で、『しかのこ』においては「集団」が独特の存在感を持つことが多い。『しかのこ』で頻発するギャグとして、のこたんやこしたんが何かをすると、クラスメイトや全生徒が盛り上がったり何か感銘を受けたり……とリアクションをする流れが挙げられる。そして、飄々としているのこたんはともかく、こしたんはそれにたいてい翻弄されてしまう。またここで、「シカ部」が配信するエピソードを思い出してもいいだろう。普通、どう考えても過疎配信となるはず——たとえば「健気にコメントしていたのは実は猫山田(だけ)でした」といったオチが普通は考えられるだろう——なのだが、やたらとコメントが飛び交い、ここでもこしたんは翻弄されてしまう。また上記の例とは少し趣が異なるが、登場するシカにしろのこたんの頭にとまる鳩にせよ、とにかく「数が多い」のだ。
このように、『しかのこ』は「集団」のステータスが高いという特徴がある。これは、考えてみればそうですねという話ではあるが、ありそうでなかった表現だと言えるだろう。後述する論点とも繋がるが、「日常系」は時に「箱庭」とも称され、限定された空間の中で個々のキャラクターたちにスポットライトが浴びせられる。対する『しかのこ』はのこたんとこしたんのやり取りを起点にしながら集団が独特の存在を持つ——そこでの集団はあくまで「ギャグ的」であるものの、日常系の盲点とも言える表現だろう。
<魔法>と<爆弾>
続いても『しかのこ』で頻出するギャグを皮切りに、この作品の特性について考えてみよう。それは何か? 爆弾である。『しかのこ』ではやたらと「爆弾オチ」が多い。言ってしまえばギャグ漫画でよくある表現なのだが、私見では、この『しかのこ』では独特の役割を担わされているように感じるのである。それは、ここでの「爆弾」は「魔法」の代替物ではないか? というものだ。
一般的な話として、「日常系」はよく「お砂糖とスパイスと魔法(sugar, spice & magic)」から構成されると思われている——と言って、言い過ぎではないだろう。たとえば『けいおん!』であれば、そこでの人間関係から演奏技術に至るまで、一種の魔法がかかっているというわけだ。ただの「日常」をカメラに撮るだけでは味気ない。そこに少しの魔法を載せることで作品は輝かしいものになる——もちろん個々の作品に違いはあれど、こうした姿勢をきらら系の最大公約数として抜き出すことはできるだろう。
そうした物事を解決する魔法の代わりに、『しかのこ』では「解決策」として爆弾が用いられていると考えて欲しい。もちろん、それは展開に行き詰まると爆弾が「解決」してくれるという訳だが、注目して欲しいのは最終話だ。最終話、のこたんが消失する話が退けられ、せんとくん等との訳のわからないバトルが繰り広げられる。あれをどう捉えればいいのか?
「普通の日常系だったらどうするか」を考えてみよう。のこたんが消失する。こしたんが周りに尋ねても、周りの人の記憶からものこたんは消えている。そんな中こしたんが奮闘し、色々あって奇跡(=魔法)が降りてのこたんとこしたんは再会を果たす……これが普通の作劇だろう。しかし、『しかのこ』ではこの「奇跡」が退けられ、最終的にはのこたんがボクシング場に爆弾を落としまくる。ここで「爆弾」が「魔法」の対応物になっているのは明らかだろう。
なお、ここにおいて『しかのこ』から一種の「フェミニズム」を読み解くこともできるだろう。フェミニズムと文学研究を掛け合わせるような精力的な研究を行なわれている北村紗衣氏の印象的な著作から言葉を借りるなら、『しかのこ』の女の子たちは『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』から構成されている。少なくとも、いわゆる「日常系」のキャラとはかなり異なる主体が構成されることは見て取れるだろう(もちろん、「そこも込み」で可愛いわけだが)。
<空間>と<時間>と<出来事>
以下では少し原理的な考察をしよう。『しかのこ』では、普通の作品で書かれる時間や空間が失調する代わりに「出来事」が突出している、というのがここでの主張だ。なお、以下の議論はジル・ドゥルーズの哲学に多くを負っているが、氏の思想を作品に当てはめて評価するのが本意ではない。あくまで「道具」として用いることで、見えにくい『しかのこ』の作品構造を浮かび上がらせることが狙いである。そのため、「出来事」概念も本稿に関わるようにできるだけ単純化する。「こんな見方もあるっちゃあるな」程度に思ってくれれば幸いである。
この世界は何から作られているか? 時間と空間である、というのが普通の考えだろう。今、僕はパソコンの前にいる。昨日、台所にコップがあった、などなど。しかし「出来事」という概念は時間と空間では捕まえることができない。ここでは、「僕と〇〇が友達になった」という「出来事」について考えてみよう。この出来事を時間的に指定するのは難しい。何時何分何秒……と指定したところで、では1秒前は友達ではないのか? 半分くらいは友達では? それに1秒後は? などなどという問題があるからだ。また、出来事を空間に定めるのも困難だ。「友達になる」はまあ、両者の間に起こることだとして、具体的にどこかは分からない。このように、出来事は「時間」や「空間」から逃れ去る第3の重要なカテゴリーである……。
この3つのカテゴリーを意識しながら『しかのこ』を見ていこう。まず、『しかのこ』は空間的な魅力が弱いと思われる。「日常系」では空間がフェティッシュを伴って描かれることが多い。「放課後の部活」にせよ「大室家」にせよ、そこでは関係性が深まる場所として空間が強く機能している。他方、『しかのこ』はそうしたフェチは希薄だ。生徒会もあるにはあるが基本的には機能せず、何よりあの「シカ部」の貧困な見た目と言ったら! なお、確かに日野の様々な場所が描かれており、微妙なところがある。ここは主観的な判断になってしまうが、後でも述べるようにそこでの空間はあくまでも「出来事」が起こるための付随物であると考えたい。
さらに「時間」感覚も希薄というか、バグっているというのは見てとりやすいだろう。サザエさん時空ではないかと思いきや突入するし、季節の移ろいを描くわけでもない。また「時間が経っていること」を彷彿とさせる「関係性の深化」も希薄だ。確かにばしゃめとあんこが田植えを通じて仲を深めるエピソードはあったものの、あれは例外に属していると言えるだろう。初回を除いては、のこたんとこしたんの関係性がどう深まっているのか、全くと言っていいほど謎である。
(付記:「日常系」の時間論について。「日常系」は「無時間的」と称されることが多い。確かに時間が流れない「サザエさん時空」を採用している作品は多いし、いわゆる物語が進行するような仕方での「時間の流れ」は希薄だ。しかしよく見ていくと、極めて精妙な時間操作がそこではなされていると思われる。一方では、関係性が進展したり、新たな関係が生じたりという「フィードバックがかかった時間」が流れているのはわかるだろう。注目したいのは日常系の実は大半を占めているギャグだ。こうしたギャグはその場限りで消費され、その後の人間関係には基本的には関係しない。つまりフィードバックがかかっていない。このように、フィードバックがかかっている時間とかかっていない時間の二重性が日常系の時間の特徴として挙げられる。なお、さらに付け加えるならば、こうした二重性をフィクションが導入するのは通常「神話」によってである。たとえば海外の映画を見ると、実はキリスト教がモチーフになっていて……などという作品に遭遇することは多いだろう。あれは「目の前の物語が進行している時間」と「神話の時間」に時間を二重化することで作品に深みを与えるという操作なのだ。この観点からすると、日常系はあくまでも一重なはずのコミュニケーションから二重の時間を「神話抜きで」作り上げる極めて巧妙な操作を行っていることが分かるだろう)
以上、空間と時間が希薄ないし失調している代わりに、『しかのこ』ではとにかく出来事ばかりが起きる。学校行事を始め、「シカコレ」や配信などとにかく出来事ばかりが屹立しているのがわかるだろう。これが、「日常系」に対する『しかのこ』の特徴である。
おわりに
以上、『しかのこ』と「日常系」は違うという仮定のもと、その特徴について駆け足で論点を巡ってきた。
まず、『しかのこ』は、個ではなく集団がフォーカスされやすいという点で、人間の描き方として「日常系」の中では異例であることを確認した。次に、日常系では重要な役割を果たすことが多い「魔法」が、『しかのこ』では「爆弾」に置き換わっているのではないか? という可能性を検討した。最後に、多少原理的に、しかのこは時間・空間ではなく「出来事」のアニメであるという仮説を立てて点検した。
以上見ていくと、誰しもが抱く「あの」直感は正しかったということが分かるだろう——やはり『しかのこ』は「日常系」を超えんとする野心作であると! 僕は今期、久々に『しかのこ』で毎週アニメを鑑賞するという行為を遂行した。そして『しかのこ』のあまりの野放図さに時折苦笑いを浮かべつつもすっかり夢中になってしまった。OPの「いつの間にクセになって ぬぬぬん」とはそう間違っていないと思うのだった。
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