#6 桜はあと39回しか見られない
2019年2月。
あっという間に2月だ。
ついこないだ、新年を迎えたばかりなのに、きっとこうして1年があっという間に終わっていくのだろう。それが、「忙しすぎるから」だということはよくわかっている。
1年のはじめには、毎日をもっと丁寧に過ごしていこうと思うのだが、2月にもなるとそんなことを思っていたこと自体忘れている。通勤電車に乗って、会社に行って、家に帰ってばたばたとご飯を作る、ただただそんな毎日だ。
「丁寧に生きる」ということは自分と向き合う時間をちゃんと作るということだ。それをわかってできないのと、知らずにできないとでは大きな違いがある。
1日にたった数分でもい。自分に戻れる時間を作れることは最高の贅沢だ。今日は仕事のメールも落ち着いているから、そんなことを考える余裕がある。
この時期は、海外の取引先の営業スタッフが訪問のアポイントをいれてくる時期で、お客さん関連のメールよりも、アポイントのメールの数のほうが多いくらいだ。そんなメールにひたすら機械的に処理をしていく。
順番にメールチェックをしていると、例の、「バンコクで会いたい」と言ってきたセールススタッフからまたメールが届いている。
ついこの12月に来日していたばかりなのに随分と早い再来日だ、いや、まてよ、もしかしたらまた間違っているんじゃないのかと疑いながらも当たり障りのない返信を書いて送った。
3月ならまだスケジュールにだいぶ余裕がある。スケジュール帳に予定を書き込んで、次の仕事にとりかかった。
たんたんとメールを処理しながら、そもそもなぜ、私はこの仕事を続けてきたんだろうかと自分自身への本質的な質問がふと頭に浮かんだ。
イギリス留学中やアジアの国々を一人で旅する過程で、たくさんの人に出会ってきた。考えてみたらいつも一人の冒険が心地よい。今、「結婚」や「家族」に縛られている気がするのも、きっとこのせいだ。本当は冒険が好きなのになぁと。
でも、家庭があるとなかなか動けない私にとって、この仕事で出会う人を通して世界を垣間見られるというのは、ある意味ちょうどよかったのかもしれない。新しい人たちを通して見る知らない世界は、たまらない刺激になるだからだ。
しまった。もうこんな時間だ。
こんな風に空想なんだか妄想なんだかをして、1日があっという間に過ぎていくんだ。でも、これが空想じゃなかったら、そして、本当に自分が自由になれたとしたら、それはどんなにか素敵だろう。
3月のスケジュール帳を見ながら、人生100年だとしたら、あと何回桜を見れるのかと計算してみた。
41歳の今から計算すると、あとたったの59回だ。
仮に80歳まで生きたとしたら、39回しかない。
その時ふと思った。
何回見れるのかも大事だけど、誰とみているかはもっと大事だよね、と。
つづく・・・