見出し画像

大学で書いた映画論の構想

前回の記事は映画について書いたのだが、不評だった。よくわからないが、映画よりも、哲学の記事の方が好評なのかも知れない。しかし、今回もよりポップに映画について書こうと思う。

 

私は、法政大学の学部生時代、不勉強な学生であった。それは今も変わらないが、第二外国語であった、中国語の授業も、落第を繰り返した。

 

そんな折、助け舟を出してくれたのが、中国語の講師だった、大澤理子先生であった。大澤先生には、水天一色著「蝶の夢 乱神館記」とゆう中国ミステリの翻訳書がある。大澤先生は、ぼくが映画が好きなことを識って、単位認定の救済処置として、中国語圏の映画のレポートを書くことを、提案してくれたのだった。但し、

「まあ、オーソドックスに、ジャ・ジャンクー、ロウ・イエ、ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン、あたりの作品が書きやすいと思いますが。」

 

とゆうメールでの指示はあったが。

 

それまで、中国語圏映画をほとんど見ておらず、指定された監督たちに関しても無知であったが、結局、ジャ・ジャンクー監督の「青の稲妻」とゆう映画を選んだ。元東京大学総長で、映画評論家の蓮實重彦氏も、ジャン=リュック・ゴダール監督の、「勝手にしやがれ」を引き合いに出して論じていた。「青の稲妻」には、荘子の「胡蝶の夢」の話も出てくる。「蝶の夢 乱神館記」にも、「胡蝶の夢」の話が出てくる。私はこの本を拝読して、大澤先生は、信用できる!と思いましたよ。



勝手にしやがれ

 蝶の夢: 乱神館記 (島田荘司選アジア本格リーグ 4) https://amzn.asia/d/f8ADYpv


大澤先生に送った映画論の構想の意味が、自分でもわからなかったが、十二年間考えて、ようやくわかるようになった。前回の記事の、自分の自主映画の意味も十五年かかってわかったから、馬鹿なのかも知れない。


先に引用しておこう。

 

一応、構想としては「賈樟柯」を『青の稲妻( 任逍遥)』に重点的なモチーフを置き、『「追いつけ追い越せ型」の「資本/社会主義的関係性」ではなく「振り返り型」の「知覚における集合体」を生きる』という美学的なテーマで論じてみたいのですが。

 

まず、「追いつけ追い越せ型」が、例えば、かつての日本での、「欧米に追い付け追い越せ」とゆうような、意味合いである。「資本/社会主義的関係性」とは、社会主義国家でありながら、資本主義を採用している、中国が、その一例である。振り返り型とゆうのは、「追いつけ追い越せ」に対し、既に、成熟したものが振り返る、或いは、反省する、とゆう意味合いである。「知覚における集合体」を解説すると、「集合」は数学用語ですが、いうなれば、日本国は日本人全体の集合ですよね。「知覚における集合体」が日本とゆう意味であるとしたら、知覚における、ではなく、感覚することにおける、とすればよかった。

 

大澤先生からは、「構想を拝見してたいへん興味深いテーマだと思いました。」

 

との返信があった。その次の年度も、私は、大澤先生の中国語の別のコマの講義を取ったのであった。

 

 



いいなと思ったら応援しよう!