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はい、論破! - の前に議論をしつくすことの意味

なにかのテーマについて、賛成と反対の二つのグループに分かれて討論をすることをディベートなんていいます。賛成と反対のどちらかに結論を(たいていの場合、即座に)出さなくてはいけない、というニュアンスがついてまわる。

これが結局のところ論破っていう行為につながっていくんだと思います。わたしも「はい、論破!!」ってのはエンタメとして快活でめちゃよく見てますけどもw エンタメだという意識でみないといけないと思っています。

ディベートそのものが悪いってことではもちろんなくって、このご時世では特に、自分の人生や生命を左右するような議論の場で結論が「話術」や「パフォーマンス」で決まってしまうといったら、なんだかおかしな気がするということです。

でも、そういうことがしばしば起こっています。これは答えがおおよそ決まっている社会環境で、時間を効率的に運用するためのプレッシャーから生まれたビジネス的な習慣ではないかと思います。

ところが、あなたの人生を左右するような社会の場で重要なのは、正しい結論を出すということよりも(正しい結論がないことのほうが多いのですから)、むしろ「議論をしつくす」ということだったりします。賛成であれ反対であれ、結論がどうであっても議論をしつくした上での合意形成の場であるべきということです。みんながみんな納得する答えなどそこにはないかもしれない、それでも今考えうる最良の合意点はどこにあるのか?そこに十分な議論をつくすことが、その後の動機に大きな違いがでるということです。

最近の議論は、正解があることが前提で正しい/間違いを指摘し合う。だから望まない結果がもたらされると、「ほら、みたことか」「だからいったじゃん」という批判行動で終わってしまう。責任とって謝罪して辞任しておしまい。次に繋がりません。

以前、あるプロジェクトを推進しているときに非常に大きな決断がされようとしていたことがあります。そして、わたしはその決断に反対でした。ある一人の従業員に負担がかかりすぎることが目に見えていたからです。特定の誰かの負担が前提で成り立つ計画などあってはなりません。

ある日、関係者全員が会議室に集められ議論が行われました。その結果、わたしの意図に反して、負担があることも承知の上でそれでもこの計画を推進する、ということになってしまいました。ただ、必要に応じで適切なバックアップ要員も確約するし、かかる費用も負担するというお墨付きを担当上長に確約してもらい、それが落とし所になりました。

そのときに非常に敏腕な副社長がとった行動がとても興味深く今でも覚えています。最後に、この合意でよいか改めて全員に挙手をさせたんです。ちょっと学級会っぽくて笑っちゃいそうになりましたけど、「上長の○○さん、要員の確保は約束したからね。それでいいよね?」「りなるさん、反対はわかるけどここで合意したからには精一杯協力してくれるね?」「みんなも今手をあげたよね?」ってw

案の定、プロジェクトは特定の彼に負担を掛ける形で進み、あまりうまく行きませんでした。それでも約束通りバックアップ要員は回ってきたし、わたしも合意したからには精一杯サポートしなければという気概をもって協力することができました。間違ってるって言ったじゃん!責任とれ!なんて水掛け論にならなかったのは、あのときの副社長の最後の「合意形成」があったからだと、今になって思うのです。

もし、合意形成のために議論をしつくすという本質に立ち返るなら、結果的に失敗したとしてもその失敗から復旧するための行動や動機は全く変わってくるはずです。

この遅々とした合意形成のしくみが民主主義です。自己責任のもとで各々がさっさと選択しろなんていうのは民主主義的でもなんでもありません。リーダー批判をしたくなる気持ちもわかります。市民の意図しない統率に対しての批判はもっともですが、ちょっと見当違いな気もしています。そもそも民主主義とは適切なリーダーを選ぶしくみなのではなく、市民の意図しないリーダーが選ばれてもいいように権力を分散するしくみです。

政治家がダメだとか、総理大臣が無能だとかいいますけど、それでも社会が回っているのは、まさに民主主義が正しく機能しているということの証です。民主主義が機能しているのに社会が望ましい状態になっていないのはなぜなのか、、、それはつまりもう一方で主体である市民が成熟していないからではないのか。

みんなが主体になって議論をしつくした合意のもと行動するのが民主主義の本質です。誰がリーダーに選ばれてもそこそこまっとうな選択ができるようになるためには、答えが与えられるのを待つのではなく、みんなが一様にそこそこ賢くなければいけないということです。


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