はい、論破! - の前に議論をしつくすことの意味
なにかのテーマについて、賛成と反対の二つのグループに分かれて討論をすることをディベートなんていいます。賛成と反対のどちらかに結論を(たいていの場合、即座に)出さなくてはいけない、というニュアンスがついてまわる。
これが結局のところ論破っていう行為につながっていくんだと思います。わたしも「はい、論破!!」ってのはエンタメとして快活でめちゃよく見てますけどもw エンタメだという意識でみないといけないと思っています。
ディベートそのものが悪いってことではもちろんなくって、このご時世では特に、自分の人生や生命を左右するような議論の場で結論が「話術」や「パフォーマンス」で決まってしまうといったら、なんだかおかしな気がするということです。
でも、そういうことがしばしば起こっています。これは答えがおおよそ決まっている社会環境で、時間を効率的に運用するためのプレッシャーから生まれたビジネス的な習慣ではないかと思います。
ところが、あなたの人生を左右するような社会の場で重要なのは、正しい結論を出すということよりも(正しい結論がないことのほうが多いのですから)、むしろ「議論をしつくす」ということだったりします。賛成であれ反対であれ、結論がどうであっても議論をしつくした上での合意形成の場であるべきということです。みんながみんな納得する答えなどそこにはないかもしれない、それでも今考えうる最良の合意点はどこにあるのか?そこに十分な議論をつくすことが、その後の動機に大きな違いがでるということです。
最近の議論は、正解があることが前提で正しい/間違いを指摘し合う。だから望まない結果がもたらされると、「ほら、みたことか」「だからいったじゃん」という批判行動で終わってしまう。責任とって謝罪して辞任しておしまい。次に繋がりません。
もし、合意形成のために議論をしつくすという本質に立ち返るなら、結果的に失敗したとしてもその失敗から復旧するための行動や動機は全く変わってくるはずです。
この遅々とした合意形成のしくみが民主主義です。自己責任のもとで各々がさっさと選択しろなんていうのは民主主義的でもなんでもありません。リーダー批判をしたくなる気持ちもわかります。市民の意図しない統率に対しての批判はもっともですが、ちょっと見当違いな気もしています。そもそも民主主義とは適切なリーダーを選ぶしくみなのではなく、市民の意図しないリーダーが選ばれてもいいように権力を分散するしくみです。
政治家がダメだとか、総理大臣が無能だとかいいますけど、それでも社会が回っているのは、まさに民主主義が正しく機能しているということの証です。民主主義が機能しているのに社会が望ましい状態になっていないのはなぜなのか、、、それはつまりもう一方で主体である市民が成熟していないからではないのか。
みんなが主体になって議論をしつくした合意のもと行動するのが民主主義の本質です。誰がリーダーに選ばれてもそこそこまっとうな選択ができるようになるためには、答えが与えられるのを待つのではなく、みんなが一様にそこそこ賢くなければいけないということです。