(内田樹さん 講演会:市民社会とコモンから)
noteにまとめるには内容が濃すぎたのでだいぶ要約しています。ぜひお時間のあるときに引用元のリンクを参照してみてください。
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純粋な自由ってたぶんなくって、自由って突き詰めていくとどこかを堺に自分勝手になるじゃないですか?そこに境界線を引くものはなんだろう。書くにあたって色々参考を漁っているうちに樹先生の「自由」と「平等」を同じテーブルで語らなければいけない、というより大きな視点に至りました。
自分の言葉で語ろうと原稿は書いたのですが、結局引用になってしまいました。。。
自己責任という言葉を単に「自由を選択した結果として受け止める」のではなく、「自由と平等の塩梅を探るそれぞれの責任」として捉えると、わたしたちが暮らす民主主義というしくみのひとつの歯車として、わたしたちにその選択をする覚悟がどこまであるのか?身の引き締まる思いがします。
いま時代が大きく変わる転換期にあって、敵味方、善悪、正誤、良し悪し、誰もが白黒ハッキリするシンプルな最適解をイメージすることは難しい。そしてなによりその答えには、民主主義というとても非効率なしくみのもと民主で、つまりそれぞれの「自力」でたどり着かなければいけない。
生殺与奪の権を他人に握らせるな!とは、冨岡義勇が炭治郎にいった言葉ですが、なんだかこれは現代の民主主義社会に生きるわれわれ市民に向けられた言葉のようにも感じてしまう。
全てが商品化されあらゆる答えがつぶさに提示される消費社会に暮らしていると、そういったわたしたちの生き死にを左右するような決断ですら他の「誰か」に任せていれば、いい感じの答えがすぐ提示されると簡単に考えてしまいがちです。ところが、わたしたちは民主主義という「わたしたち自身が "大人" にならなければ回らないしくみ」のなかにいます。
りなる
#生殺与奪の権 #民主主義 #自由と平等は矛盾する #デモクラシー