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すべてを「交換価値」で判断する人々

ありのままの自分であること、自分探しの旅にでること、学ばない子供たち、学級崩壊、すぐにキレる若者、批判からはいる大人たち、こういった一見バラバラにみえる行動を一つの社会現象として、捉えてみようと思う。

「消費者」としての個

むかしは子供たちにとって家族の中での初めての貢献は、お父さんやお母さんの「労働」を手伝って、少しでもその負荷を軽減してあげることだった。子供としては、その労働がどんな意味を持っているのか、どう役立つのかは知る必要もなかった。それでお父さんお母さんの労働が軽減され感謝されたから。

ところが現代社会では、子供が家族の中で初めて経験する貢献は、恐らく「お買い物/お遣い」になっている。家族にあったほとんどの労働は今や電化製品であったり、各施設であったり、道具の購入やその手入れや修理に至るまで、消費者としてサービスを受けることに代わってしまったから。家庭の中に労働というものの大部分がなくなってしまった。

ほんの5歳児が店のレジで初めての買い物をする体験を想像してみる。紙切れを渡すと、年端も行かない子供がまったく大人と同じ特権扱いをされる振る舞いは、恐らく衝撃的な体験になるだろう。

このような原体験から、学校で様々な自己形成を学ぶ前に、子供たちは既に家庭で「消費者」としてのアイデンティティーを確立してしまっているのが現代社会の基礎になっている、と仮定してみる。

消費者であること

消費行動においては自分の価値基準が第一優先される。自分が価値を見いだせないものは購入する必要がないから。たとえ誰かにとってものすごい価値のあるフィギュアであれ、それが欲しくなければ自分にとっては何の価値もない。これは市場ではとても正しい。

消費者としてのアイデンティティーを確立するとは、つまり商品の価値を評価するのは消費者である「自分である」ということ。

生産者からすれば、その商品価値をわかってもらえなければ売れない。売れなければ価値がないからこそ製品のアピールをする。消費者は、それを上から眺めて「うーん、2000円でなら買ってやらないでもないな、、、」と値踏みをする。

消費者の価値判断がなにより優先される

自分の」やりたいこと、「自分の」好きなこと、「自分らしさ」を追求する、といったことが重要視される風潮も、こういった背景があると考えると、腑に落ちる部分がとても多い。

交換価値で考える人々

このように「自分」を基軸とした価値判断をものやサービスの購入だけでなく、わたしたちの活動理由の基準にしてしまう人々が増えている。

彼らは自分の価値基準に見合っているかどうかで、あらゆるものを決定しようと努力する。これは市場で交換可能な商品を購入する消費者心理ととても似ている。

さて、このように全てを交換可能な「交換価値」とみなすとどうなるだろう?

例えば教育では、それを学ぶことにどんなメリットがあるのか?それを習得することで何が自分に得られるのかという交換価値で科目を選ぶようになる。まるで、RPGで主人公が会得するスキルのような感覚かもしれない。

教師と生徒は師弟関係というよりは、スキルを付与してくれる提供者とそれを受ける消費者の関係になる。だから生徒は先生の講義に対して「あなたの授業はわたしの人生にどれほどの価値を生むのか?」と値踏みをする。学級崩壊や、授業を聞かない生徒は授業を面倒くさいから聞かないのではなく、消費者としての当然の価値判断をする権利を主張しているに過ぎない。

想像してほしいのは「今の自分」にとって価値のないものが、同等に「未来の自分」にとって価値がないものかどうかわからないという事実だ。

明確な答えがわかっている社会であれば、全て自己責任によって、子供たちの趣味趣向に沿った教育をするというのもありなのかもわからない。いずれにしても、そうやって深淵な学問ほど「未来の自分」にとっての可能性を「今の自分」が値踏みしてタダ同然でドブに捨ててしまうのだ。価値がわからないものを学ぶのに価値が理解できないために習得する機会を逃すジレンマがある。

子供たちだけではない。日常の仕事や、満員電車の会話でも同じような現象は起こっている。下請けにとにかく頭ごなしに怒鳴りつける人。満員電車で突然キレる人。交換価値の交渉において、相手を値踏みし、時には気持ちの悪いクレームによって相手を低く評価することが消費交渉においてより有利に働くことを知っているからだ。

しかし、人生には「交換価値」だけで、測れないものが当然ある。

「交換価値」を注意深く洞察すると、それは必ず自分と自分以外との "関係性" によって成り立っている。だから、自分と外部の要因との関係性が変わればその価値基準も変わってしまうという点を見逃していないだろうか。

自分との「関係性」を探る

ここのところ「自分らしさ」を探すなんて言葉が流行っている。それ自体は否定しない。多様性の中で確固とした自分を見つけることはとても有意義なことだとわたしも思う。

しかし、自分らしさを(恐らくそうと気づかずに)「交換価値」の中に見ようとしている人があまりに多いことにわたしは驚いている。

自分の好きなことってなんだろうと問うたとき、やり始めた時は大嫌いだったのに、できるようになると好きになったものなどないだろうか?逆にはじめは楽しかったのに、やり続けると苦しくなることはないだろうか?または、やっている内容なんかより、一緒に過ごしている仲間とのコミュニティーが楽しくて好きになってしまったことなどないだろうか?こういったものは表面的な「交換価値」では測れない。

わたし自身プログラミングを勉強し就職が決まった当初に、プログラミングが好きか?と聞かれたら、きっと目を輝かせて天職だ!と答えたと思う。しかし、ITに関わって20年以上が経ち、プログラミングやITが仕事に及ぼす影響や、それを使ってどのように従業員が動いているかなど違った側面が見えるようになった今、同じ質問をされたら、きっと同じように好きとは言えない。それは、わたしが変わったのではなく、わたしとそのスキル、またはそれを使う環境との「関係性」が変わったからだ。

自分の中に確固とした価値基準がないから、と自信喪失して自分探しをする若者。好きなことを仕事にすればよいというけれど、何が自分の好きかがわからないと悩む若者。全ての基準を「交換価値」で考えてしまうからこそ、それを評価するための自分という基準が必要になる。しかし、価値とはそもそも関係性から生まれるのだから、その評価基準を自分の中だけに探しても見つかるはずもない。

絶対価値

自分軸にするとは、ありのままの自分であるということ。そこには評価だとか、基準などといったものは存在しない。多様性とはいろいろな考えが存在するだとか、マイノリティーを認めるだとかいうことではなく、全ての個体は異なるということ。

あなたの体験はあなたのものでしかないということ。それは何かと比べたり、何かと交換するために同等の価値があるかどうかなどと評価されることができない唯一の出来事だ。

好きなことがなんのなかわからないという人がいる。話を聞けば聞くほど、それは例えるなら旅行に行ってなにかレジャーを楽しんで、美味しいものを食べて、とてもハッピーな気持ちになれたといった体験を再体験したい、ということにしか聞こえなかったりする。これはまったく消費者マインドでしかない。

交換価値では表現のできない「絶対価値」がある

恋人からもらった安物の指輪。浜辺で拾ったきれいな貝殻。別れた彼が最後に残したタバコの吸殻。

絶対価値は比較や画一的な価値付をすることができない「なにか」だ。

苦しくても楽しくなくても仕事にならなくても、あなたの内部からわきあがる「なにか」であれば、そもそも好きなことがなんなのかなどという疑問すら浮かばないはずだ。

すべての判断を交換価値に落とすことをやめる

心の絶対的なよりどころは、関係性によって変動する「交換価値」の中には見出すことはできない。

小さい頃からの体験が、そうさせているのかもしれないけれど、すべての出来事を「交換価値」として評価できると盲信してしまっている。自分にとってほんとうに価値のあるものがなんなのかが見えなくなってしまっている。そんな人が増えている。

普段の何気ない会話、進路の決定、テレビのニュース、情報番組でのオススメ情報や、批判、憧れ、不幸、娯楽、こういったものがどのような価値基準で評価されているか注意深く見守ろう。そもそも、比較評価できる時点でそのほとんどは「交換価値」による表面的な評価でしかなく、あなたの「絶対価値」とはなんの相関性ももたない。

何をするにつけても、これをすることでどのような効果があるのか。それには、どんな価値があって、対価は何で、どれほどの費用対効果が見込めるのか、そんなコメントがもっともらしく報道され、当然のように評価したり批判したりを繰り返している。

しかし、それを一歩引いた視点で見ると、とても空虚だと感じる世界がある。

全てを交換可能な価値として、あらゆる行動を判断してしまうと、そもそもわれわれが知り得ない価値に対して、そしてわたしの個としてのゆるぎない価値に対して、なにかとてつもなく大切な物を、いとも簡単に捨て去っている可能性に目を向けよう。

りなる



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