言語学習ってなんだ
言語学習についてまたブツブツとつぶやいてみたいと思います。言語と言えば特に英語を勉強したい、または(子供に)勉強をさせたいと言う人は多いのだけれど、何を目的にするのかによってその学習の意味は変わってきます。言語というのは単にコミュニケーションを取るためにあるというのはリスキーな考えではないかとわたしは思っていて、まずはその前に日本語の言語としての特徴を知ることによって、他言語学習の何が重要でどこにリスクがあるのかを考察できるのではないかと思ったりするのです。
そこで、今日は日本語の特徴から言語学習ってなんだっけ?ってことについて、つぶやいてみたいと思っています。特に言語について文献を調べたわけでもないので、ここに書かれていることにはあまり根拠はありません(汗)わたしの体験談として読んでいただければと思います。。。
話の中身を持っていること
英語ができればグローバルに活躍できるなんて、ちょっと前まではよく言われたものでしたが、さすがに最近は「とにかく喋れればいい!」みたいな乱暴なことを言う人は少なくなったように思います。かくいうわたしも以前は漠然と英語がしゃべれたら海外の人たちと自由に交流ができるのになぁ、などと単純に思っていたタチでした(笑)
実際にいざ喋らなくちゃいけないってときになって、不覚にも気づいたことがあります。それはつまり、わたしは自分が語るべき主張をもっていない、ということでした。英語が喋れる喋れない以前に、己の主張がない限りコミュニケーションは成り立ちません(あたりまえ)。日本語でできないことが、なぜ英語ができさえすればコミュニケーションがとれるなどと錯覚してしまったのだろう。。。(汗)そのあたりから、グローバルなスキルというのはつまり自己の軸をしっかり持っていて、それを世界のどこででも発信できることなのだ、とやっと悟りました。
すると面白いことにだんだんと日本語の特異性というものが気になり始めます。まずはそこに至った経緯にお付き合いください。
文法の並び
わたしは英語しか知らないので、英語との対比しかできないのですが、すこし文法上の違いをおさらいしてみます。これはよく言われることですが、日本語と英語では文法の構成がきれいに「逆」になります。
例えば、I went to school yesterday.
これを日本語的に並び替えると、
(私は)・昨日・学校・に・行きました
ほら、主語を除いて並び順がきれいに逆になります。
文章構成の並び
これは文章構成でも同じようなことが言えるように思うんです。英会話を聞いていると、because って単語をすごく頻繁に耳にしませんか?ネイティブがcuzなんてちょっと省略するのがかっこよくってわたしも使いたい!ってよく思ってたんですが、これがなかなかbecauseって単語は思うように口からでてきません。代わりに日本人にとってスッとでてくるのは so なんです。
これもなんでだろうと、ずっと思ってました。欧米人の場合、動作や結論から先に表現するなんてよく言われますね。例えば、becauseを使った文章を日本語で作ってみると「明日学校に行くことになったよ。なぜなら補習授業を受けなきゃなんだ。」となります。なんかちょっと不自然な感じしますよね。。。日本語の場合、「明日補習授業を受けなきゃだから、学校に行ってくるよ。」となるのが自然じゃないですか。文章の構成自体もやっぱり文章全体が逆並びになるという印象があります。
日本人は思考的に理由や状況説明が先にくる。この違いが会話や文にも現れているように思います。
並び順は思考プロセスの流れ
日本人はくどくどと説明が長いとか、結論を先に言え!などと否定的に捉える人もいますが、わたしは決してこれが悪いとは思っていなくて、特徴(むしろ特技)のひとつなのだと思うのです。ここをしっかりと認識することが大切です。例えば、最近YouTubeで海外オタクが日本のアニメを評価して、日本の物語はback storyが秀逸なんだ!って会話で盛り上がっているのをものすごくよく聞きます。鬼滅なんかでもそうですが、どんだけ醜く残酷な鬼であっても、彼らには彼らの理由や生きてきた背景があります。その生い立ちを知った上で結論を観るのとでは、これまでの行動の結果が全く違ったものに見えてきます。そしてそれは日本語の言語体系によく現れているのではないかとわたしは思うのです。
これが言語からくる思考プロセスなのか、文化的な思考プロセスがこのような言語を形成したのか、鶏が先か卵が先なのか、わたしにはわかりませんが、そのような特異性があるのではないかと言うことです。
日本語で使われている単語
帰国してから更に気になったこともあります。日本語で使われている単語にはものすごく仏教由来の単語がふんだんに含まれています。友人はみんなきまって「いや、まったくの無宗教派だし」なんて主張しますが、いやいや海外から観るとものすごく宗教的な感覚をもって生活している民族にみえるのではないかと思います。
宗教的かどうかを問題にしたいわけではなく、仏教などの非常に難しい概念的な用語を日常使いすることで、体験的にその思想が染みついているという特徴を指摘したいのです。
例えば「業」という言葉。自業自得だよね、と言った趣向の話を日常的によく耳にします。英語にもKarmaという言葉があるにはありますが日常的に使われているのはあまり聞いたことがありません(仏教国ではないので当然かw)。それから「ご縁」。「よいご縁がありますように」とか、「これもなにかの縁」だとか。恋愛成就なんかの話はみんな大好きですね。「行」もそうです。「いつもの行いのお陰」だとかそういった表現をよく耳にします。
英語ではこれに似た表現をする場合、deserve という単語を使って、あなたはその報いを受けるに値するとか、あのようなステキな恋人をもつのに値する、その報酬を手にするにふさわしい・値するといった表現をします。この deserve という単語のニュアンスが日本人にはあまり理解ができないように思います。なぜなら、おそらく日本人の感覚的にはそれは個人の行動に対する権利や責任の結果ではなく、仏教でいうところの縁起によってもたらされたという文化的な思考の習慣に馴染みが深いからだと思います。
自然との対話とオノマトペ
呉善花さんの『日本が嫌いな日本人へ』という本でも紹介されていたのですが、日本人は脳科学的に他の文化圏とは違った生体を持っているといいます。特に自然物に対する感性です。虫や鳥の鳴き声や木々や河川など自然物のざわめきなど、欧米人にとって「ノイズ音として」右脳で扱われる音を、日本人は左脳で「言語として」聞いているといいます。こういった特徴を示すのは世界でも日本人とポリネシアの一部の民族だけなのだそうです。
道端でたんぽぽに語りかけているおばあちゃんを見て日本人はほっこりしますよね。あの感覚は日本人特有なのだといいます。日本人は自然の音を文字通り言葉として聞いて対話しているのです。
バタバタと走る、とぼとぼ歩く、ガンガン進む、ざわざわするなど、自然だけでなく動作に対する状況を言葉にするオノマトペが多いのもそのせいかもしれません。目の前に起こっている事象を「言語として」知覚する特徴を持っているということに関連して言語が構成されているように思えるのです。
その言語にしかできない思考ロジックがある
以前、確か数学者の藤原正彦さんがおっしゃっていたと思うのだけど、天才数学者の方程式を見ていると、どこか生まれた風土の美しさを感じるのだと言うようなことを仰ってたのをたまに思い出します。インド人の数学者にはその思考ロジックにインド人らしさがある。
これはきっと他の言語にも同じことが言えるように思います。どういうことかと言えば、人間の感性とか情緒というのは決して特定の言語の中にすっぽり収まりきるものではありません。ところがわたしたちが生活する上で、それをリアルな体験に落とし込んだ時には必ず言語の影響を受けるのです。誤解を恐れずに言えば、どの言語を選択するかによって表現しきれない微細な素の感情は切り捨てられているということです。話す言語によって自分の性格がそれに引きずられるような感覚を持ったことのある人は少なからずいると思います。つまり英語には英語のヒンディー語にはヒンディー語の日本語には日本語の特徴(良さ)があり、同時に取りこぼしてしまう感性が言語ごとに違っているということだと思うのです。
人は言葉を発せずに頭の中だけで思考しているときも、必ず言語の影響の内で思考をしています。言葉というのはプログラミングで言うファンクションの呼び出しのようなものですから、その言葉が存在することによって、他の文化ではまったく非日常的なことでも瞬時に発想できてしまったりするわけです。欧米人に「縁起」について語ろうとしたら難儀ですが、日本人にとってみたら「善いご縁に恵まれましたね」で済んでしまう。そのような、なにげない一言のなかに深い思想があたりまえに染み込んでいます。
さて、、、本題
前置きが随分と長くなってしまいました。これもわたしが日本人だからでしょうか(笑)
ここまで読んでいただいた方には、もう何が言いたいかそろそろ推察できるかもしれませんが、言語教育というのは単に会話ができればよいといった単純なものではないということです。言語の中に文化的な背景や歴史、そして思想が染み込んでいるのだということを感じてほしいと思っています。
グローバル人材を育てるとは?
グローバルに活躍できる人材を育てるといったときに、まず心得て置かなければいけない視点があるように思います。世界には優秀な人材などゴロゴロいます。その中で既に活躍している何万、何十万もいる天才と同じことができる人材が果たして「育てたい優秀な人材」なのだろうか。
特別な視点を持った人であったり、人と違う感性というのはそれとは別です。世界では多様性が尊重され、むしろその特異性が求められるようになってきています。すると、グローバルな人材というのは規格化された画一的な人材であることとは全く違い、多様性を重視するなかでどれだけ違った視点で新しい風を吹き込むことができるのかだとわたしは思います。
このときに重要になってくるのが、文化的背景や思想の問題です。以前noteで、他言語で思考する時に自分の思考や感情がどのようにそれにひきずられて変化するのかの体験談を書いたことがありますが、わたしは思考は必ず言語の上に構築されているように感じています。何年か前に、いきなり社内の共通言語を英語にするなんてことをした企業がありましたが、突然そのような変革をすると上述したような言語の中に思考プロセスとして内在している遺産を失ってしまうリスクがあるのではないかと思うのです。
そのために言語学習がどうあるべきか?
明治以前には「愛する」という日本語はなかったそうです。明治に福沢諭吉によって英語の「LOVE」の対訳として造られたものだそうです。これはとても欧米的な能動的な愛の表現ではないかとわたしは思います。それ以前にはお慕いするとか、慈しむといった表現がつかわれていたのでしょうか。キリスト教の伝道師がどのように「LOVE」を伝えたのかはとても興味深いところです。いずれにしても、明治以前の日本人にとってこの「LOVE」というのは、わたしにとっての deserve のようなちょっとニュアンスに戸惑う表現だったのではないかと想像したりします。
西洋の思想を言語の中に自然に溶け込ませた福沢諭吉という人は超人的な天才だったのだと思います。もし彼がいなければ、いまわたしたちはすんなりビートルズの歌詞を理解できていなかったかもしれない(笑)
ただ世の中に彼のような天才が常にいるわけではありません。するとこのLOVEという概念を「愛する」という言葉のなかった時代に、日本語の枠組みだけで理解することには限界がでてくるのではないか。それを表現する言語的背景がないのですから。
言語学習の重要性はそこにあります。ある文化の表現をより本質的に理解しようと思ったら、その背景にある言語体系から学ばなければいけないレベルが必ずあります。言語学習の重要性は、その言語に内在する文化背景がどのように表現されていて、その差を自分の母語の特徴とともに理解することだとわたしは思います。
思考は言語と密接に紐付いている
気づいたら結構な文字数になってしまいました。。。軽いつぶやきのつもりが。。。だらだらとすみません。根拠のない話に付き合っていただきありがとうございます(テヘっ)。
言語というのはただの意思疎通のツールではなく、その文化的背景や思想を内在するファンクションなんです。言葉はよりローカルで共通の背景を持った仲間同士でどんどん発展していくものだし、(そういう意味では国内であってもマスメディアによって言語が単一化されること自体が感情の劣化を引き起こすのかもしれない)。感謝の気持ちを表す言葉は「ありがとう」だけではありません。その関係性によって「ばかやろう」だったりテールランプがアイシテルになったりもするんです。ですから、「あ」とか「うん」で仲間内の内輪思考が引き出せるプロセスがとても貴重なのだとわたしは思ったりします。そしてその多くの人類史のエキスを含む言語から得られる様々な概念はわたしたちの行動様式にも影響しているのです。
長々と書いてしまいましたが、ようするに身の回りの共通の友人と、そしてもちろん身近なnoterさんたちともっと深く会話をして、その中で生まれる言葉を大切にしましょうね!というお話でした。
りなる