感情と社会 12

残虐さの根源のひとつ ー 公共性 Öffentlichkeit / public / publicness

2020年の台風9号と10号は未曾有の大きさだといって、メディアは大騒ぎをしました。でも、この台風が両方とも朝鮮半島を直撃していることに触れたメディアはほぼありませんでした。(Washington Post, BBC, Guardian, CNN, Zeenews, Aljazeeraなどはしっかりと報道していました。)
一方、アメリカ合衆国を台風が襲うと、日本のメディアは大事件だとばかりに一斉に報道をします。住民へのインタビューにも事欠きません。一方、南アジアや東南アジアの諸地域を大災害が襲っても、住民がインタビューを受ける場面はほとんどありません。

日本のメディアに通底している情緒が、やはり、利害が絡まない、あるいは自国よりも<位格が低い>と感じている他者に対する極度の関心の低さであることを、これはあまりにも明白に表しています。「自国≈自分」の利害に強く関係しているし、<位格>も<圧倒的に日本より高い>と思われているアメリカは身近に感じて、「自国≈自分」の利害との深い関わりはない、それどころかどちらかというと馬鹿にしてもいいくらいに感じている国々には、まったく関心が向かない。

ヨーロッパやアメリカなどのメディアを日常的に経験している人なら誰でもご存知でしょうけれど、それらの国々のメディアは、政治や経済にまつわることであれば、ほぼ世界中のニュースを取り上げます。どこかの民家の火事や、どこかの交通事故や、痴漢や、芸能人の不祥事や、有名人の不倫などを騒がしく報道すること(これはこれで、日本に根づいている道徳感の相互監視という習慣に起因するのでしょう)はまずありません。
ヨーロッパ諸国やアメリカ、カナダなどは、ずっと以前からキリスト教を広め、いち早く産業革命を起こした人々がいる地域だし、かつての帝国主義の名残もあるのから、いまだに彼らは世界を牛耳っているつもりなのだ、いまだに世界中に利害を感じているのだ、と言うのも可能でしょう。でも、インターネットがこれほど世界をつないでいる時代になってなお、日本のメディアが自国以外の状況にあまり関心を示していないことを、ただそれだけで説明して片づけてしまうのには、いくらなんでも無理があります。とりわけすぐ隣の国々のことを、ぼくたちはあまりにも知らされていないことが多い。奇妙です。
やはり日本のメディアは、基本的な心の状態として、他者に関心を示すことがあまりないのでしょう。心が閉じています。

その一方で、日本のメディアが、とりわけ熱心に行なっていることがあります。それは、「公共性」を<道徳性>と同じものと捉えて、その意識を絶えず喚起しようという姿勢です。これはかなり独特な姿勢です。

「公共性」というのは、日本ではしっかりと根づいていない概念、なんだかピンとこない概念でしょう。この概念は、ハーバーマス、ルーマン、イムホーフといった、ドイツ語圏を中心とした研究者が大きく取り上げたものです。近代 Moderne という時代区分で呼ばれる、16世紀以降の政治体制、とりわけ官僚による支配体制の整備に始まり、やがては民主制(直接選挙制による市民の政治参加)、つまりは今に至るヨーロッパの社会構造の中での、市民の役割をまとめようとした概念です。
近代以降のヨーロッパでは、社会を律して支配するのに、支配層の独裁、暴力による抑圧では、国家はすでにうまく機能しなくなっていました。支配層は、経済的に力をつけ始めて、すでにもう暴力的な支配装置に屈しなくなり始めていた市民(とはいえ富裕層、そして男性だけですが)と取引をして、なんとかして妥協点を見つける必要がありました。その長い長い交渉の一つの帰着点が、ぼくたち日本人も少しは聞いたことがある、とはいえ十分に機能しているとはお世辞にも言えない、民主主義体制です。「公共性」という概念は、本来、さまざまな社会支配の形や、さまざまな社会イメージの間の、絶えざる闘争と妥協の場の一つと考えることができます。つまり、ヨーロッパにおいては、「公共性」というのは、社会で起きていることを市民の前に露わにして、支配体制に対する監視と制限を行おうという場なのです。

「公共性」は、支配体制から見れば、支配する市民を懐柔するための妥協策。
市民から見れば、支配体制の独裁性をいくらかでも切り崩そうとする手段。
「公共性」には、常にこの、お互いに相入れそうにない二面性があるのです。

日本では「公共性」という耳慣れない言葉を聞くと、「公衆道徳」のようなイメージを抱く人が多いようです。ヨーロッパのように、支配体制に対抗するための武器という面で捉えられることはなく、支配体制に有利に働く社会イメージの共有、感情性の共有という面だけが感じ取られています。これはpublicの本来の意味からするともちろん誤解ですが、ただこの誤解は、やはり日本という社会が共有している感情性と大きく関わっているようです。

ハーバーマスは、支配体制が、報道や企業広告を使って「公共性」のメンタリティを操作しようとしている点を指摘しています。国家がある限り、「公共性」は支配体制にとっていつでも、ありがたくない観念なのです。
日本のメディアは、市民のメンタリティを操作するという役割を大きく担っています。メディアが自覚してそうしているのか、それとも過去からの慣習を引き継いでいるだけで、つまり長い歴史の中で染みついてしまっている日本と呼ばれる地域の社会イメージをそのまま引き継いで、それと意識することなく(学校教育と同じです)惰性で続けているのかは、判然としません。

日本のメディアが率先して<徳育>を行なっているわかりやすいケースは、ACジャパン(councilを名乗るこの名称がすでに異常ですがそれはともかくとして)でしょう。この法人は以前、「公共広告機構」を名乗っていました。この法人による放送を見る限り、「公共」という言葉が「モラル」「社会ルール」「国民としての意識向上」などと同義だということがよくわかります。 この法人の主体はいわゆる1部上場企業、経団連の常連さん、それに大手のテレビ局や大手新聞社など。日本には、報道は政治的に「中立」であるべきだという、判然としない、それどころか理解に苦しむ妙な道徳律があります(放送法にはこの言葉はありません)が、ある特定の「公衆道徳」を、公の手段を用いて呼びかけるという行為は、報道の「中立性」に抵触しないんでしょうか。どうやらしない、と、日本の市民の多くが感じているようです。あるいは<道徳性>は社会機構や法律とは関係がないでしょ、くらいの意識。

怒涛のように放映されている企業やその商品の<CM>も、「公衆道徳」への呼びかけに満ち溢れています。家族の<絆>、友だちの<大切さ>、サラリーマンの<頑張り>や仕事への<忠誠>、アスリートの<健全さ>、女性の場合は<女らしさ>などが、押しつけがましいと思われるほどに反復されます。こうした<CM>(意味はCommercial Message、商売のための宣伝、ですよね)を行なっているのは日本だけではないようですが、日本ほどあからさまに、現在の暮らしやその中での情緒などを商品宣伝の文脈に編み込んでいるものは、かなり例外的なケースだと思います。

報道も同様です。国内政治の動向、国際関係や地球環境といった重要なニュースよりも、どこかの街角での交通事故、行ったこともない地域の民家の火災、社会に甚大な影響があるとも思えない偶発的な犯罪、殺人などの事件、スポーツ選手の活躍ぶりなどが大きく取り上げられます。ぼくが学生時代に留学していたドイツのテレビニュースでは、交通事故はよほどの大事故ではないかぎり、扱われることはありませんでした。新聞も同様。地方紙でも交通事故や火事や、単独の犯罪、縁故殺人などは記事で見たことがありません。そのせいか、ぼくは、ドイツは交通事故があまりないのかと思い込んでいたことがありますが、事故は多発していました。ただ、それを報道関係者たちが、「公共性」に関わる重大なニュースだと感じることがなかったわけです。これを裏返すと、日本の報道関係者たちは、交通事故やら家事やら殺人事件やらが、「公共性」そのものであるとして、重大なのだと感じているということになりそうです。
じっさいそのようです。ニュースキャスターは犯罪があれば、犯人に対して「困ったことだ」「なんでそんなことをしたんでしょうか」「一言、知人に相談をしなかったんでしょうか」「みなさんも気をつけなくてはいけません」などと、極めて<道徳的>な、あるいはこの言葉が強すぎるのであれば、極めて<社会イメージ形成的>なコメントを当然のようにします。東日本大震災の記憶を「決して忘れてはなりません」と、キャスターはお説教をします。気象予報士までも「明日は折り畳み傘を持っていきましょう。」という行動指示を行なっています。「学校の先生みたい」です。

学校が主に「国民」形成のための監視機能であることは、また機をあらためてお話ししますが、その学校での行動指示の徹底ぶりは極まっていますね。学校では毎日のように「反省会」が開かれて、集団がうまく管理されているかどうかをお互いに点検しあう風習が続いています。毎週の、あるいは毎月や学期ごとの行動<目標>が、それこそ「自発的に」掲げられます。学校の掲示板にはよく、「私たちは良い子です」「みんなで街をきれいにしましょう」「みんな笑顔で」「明るい声であいさつ」といった<公衆道徳>を遵守せよとのメッセージが貼り出されています。学校に限ったことではなく、街中に<徳育>のメッセージが氾濫。
「小さなあいさつ大きなきずな」「笑顔がいっぱい満員電車」「あなたの行為、見られてますよ」「あなたの心はきれいだからポイ捨てなどしない」「歩きタバコはやめましょう」「未来へつなげよう笑顔の輪」「みんなでつくろう安心の街」「強くなれ、Tokyo」「がんばろう日本」。
こういう風土にみごとに重なるぼくの記憶は、まだ共産主義体制だった頃に訪れた東ベルリンです。街のいたるところに、「労働者はこうする!」「今月の生産目標はこれだ!」といった横断幕が掲げられていました。すさまじい圧迫感でした。

日本には、「世論」あるいは「公論」という不思議な概念もあります。一見、これは英語のpublic opinionの翻訳概念かとも思いますが、それとは似ても似つかないもの。public opinionとは、「公共性」、つまり公開の場に向かって発信された個人の意見のことです。「公にされた意見」ということですね。日本では「公論」はもっぱら、社会的に形成された(と勝手に発信者が思い込んでいる)<合意>だという奇妙な自負、奇妙な連帯感を表す概念です。そこには、どうも特定できる個人がはっきりとは見えません。 

相互監視、社会イメージの捏造、強制的な連帯意識の形成、そして個人におけるルールの内面化。これを強化し続けているのが、日本における独特の「公共性」です。そこからは、個人尊重の感情も、民主制への強い願望も、ごっそりと抜け落ちています。

補遺

「頑張る」という心情は、間違いなく、日本に独特のものでしょう。耐え抜く、我慢する、自分で許容できる範囲を超えることを「美徳」にする不思議な感情。さらに不思議なのは、「頑張る」ことそれ自体が目的になっていて、それで到達すること、それで手に入るものはどうでもいい点です。「国民的」という不思議な賛辞が送られる人気タレントのCMでの決まり文句は、とても象徴的です。「何のために頑張るのか、時々答えがわからなくなる」
その通りです。そしてその答えを探求すればいいはずなのですが、もちろん、このセリフは、そんなことを要求するのではなく、頑張るという異様な心身の緊張状態を是認して褒め称えるためのもの、そういうレトリックになっています。
「頑張る」ことが美徳に感じられる人々は、激辛の食事を平らげるのに挑戦するバラエティー番組を見て、「かっこいい」と感じる人々でもあるのでしょう。

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