見出し画像

ヒュームの社会契約説批判の議論から見る、MMTの租税貨幣論の意義

巷では、MMT(現代貨幣理論)は今やすっかり過去のものとなった感があります。考えられる理由は、世の中では、MMTは「インフレになるまでは財政出動しても良い」という主張をしていると誤解されており、コストプッシュインフレが起きている現在、「インフレになったんだから、もうMMTの言う通りにすることはできないんだ!」という言説が幅を聞かせてしまっているからでしょう。

実際、一橋大学の野口悠紀雄名誉教授は、MMTについて「自国通貨で国債を発行できる国は決してデフォルトしない。だから、税などの負担なしに、国債を財源としていくらでも財政支出ができるという主張」とした上で、「こうした財政運営をすればインフレになることの危険を軽視」していると批判する。そして実際にインフレになったことから、「最近のインフレ高進で化けの皮が剥がれたようだ」と凱歌をあげていました。
金融アナリストの久保田博幸氏も、インフレが発生したことで、MMTは「どうやら一時的な流行に止まったようである」と述べています。

しかし、上記のような的外れなMMT批判が跋扈する事態は、日本にMMTを紹介したとされる、評論家の中野剛志氏が2019年の時点でまさに予想していたことなのです。

なお、この記事中の「インフレ」とは、需要に引っ張られたインフレのことであって、地政学リスクによる原油価格の高騰や不作による食糧価格の高騰などのインフレ(コストプッシュインフレ)は含みません。コストプッシュインフレは、財政赤字の大きさとは何の関係もありません。ご注意ください
 しかし、日本のエリートたちは、地政学リスクによる原油高のせいで物価が上昇したら、「ほら、インフレになった。だから財政支出は増やせないね」って、言いだしそうですね。なにせ、まともに議論することができない人たちですから・・・

中野剛志「MMT批判がおかしいと一発で分かる方法

中野氏その人自身がMMT派の経済学者であるというわけではないとしても、この指摘はまさにその通りであり、この中野氏の予測力は流石としか言いようがありません。MMTに対する批判が初歩的かつ根本的な誤解に基づいている以上、MMTが過去のものになったということもできないのです。

このように前置きをした上で、MMTについて多少の論説を述べてみたいと思います。だからと言って、ここでMMTについての講釈を垂れようというのではありません。そんなつもりもないし、そんなことを出来るほど自分がMMTを理解しているとも思っていないためです。MMTの議論を一通り知りたいという方は、ネットで読める日本語の文献としては、(MMT四天王の一人とされている)望月慎氏の「Modern Monetary Theoryの概説(note版)」を御一読いただくことをお勧めします。

ここで私が示したいのは、MMTの租税貨幣論(Tax Driven Money View)と、経験論の哲学者として有名なデヴィッド・ヒュームの社会契約論批判の類似性です。一見全く関係ないように見えるこの二つの議論が、実はとてもパラレルなロジックを有するものだったとしたら、興味深くはありませんか?以下、見ていきましょう。

1. MMTの「租税貨幣論」

前提としての、主流派経済学の「商品貨幣論」

MMTの租税貨幣論の内容を見る前に、まずは主流派経済学において、貨幣がいかに理解されているかという点を押さえておく必要があるでしょう。

主流派経済学では、貨幣はもともと金や銀などの貴金属といった、内在する価値を持つ商品から発展したと考えられています。、つまり、貨幣自体が希少性や耐久性、美しさといった物理的・化学的特性に基づき、その価値を保持するということです。ここでは、まず、人々は自発的に、価値が内包された商品を交換の手段として選択して利用し、その後、次第に、取引の便宜を求める中で貨幣としての機能が発展したのだと理解されています。この理論は、人々が、取引の便宜の観点から、特定の商品を貨幣として自発的に選び取ってきたということを前提としています。このような考え方は、貨幣を単なる交換の手段としての商品と見做していることから、一般的に「商品貨幣論」と呼ばれています。

「租税貨幣論」のロジック

一方、現代貨幣理論(MMT)では、貨幣の起源や価値の根拠を、主流派経済学とは全く異なる観点から捉えています。MMTによれば、国家が課す租税制度によって貨幣の需要が創出され、結果として流通価値が保証されているのです。具体的には、国家は自国通貨で租税を徴収する仕組みを整えることで、国民に対してその通貨を使用する義務を課します。そうすると、国民は租税を納めるために必然的に国家発行の通貨を保持せざるを得ません。これが貨幣の流通価値を裏付ける重要な要素となっているのです。このように、MMTは通貨を単なる交換の手段ではなく、国家権力が直接介在する制度的な道具として位置づけています。このような考え方を、租税が貨幣を基礎づけているとすることから、一般的に「租税貨幣論」と呼ばれます。

確かに、よく考えてみれば、私たちは自ら日本円が便利だからと選び取って使っているわけではないですよね。そうだとしたら、そもそもこんな紙切れなんて使っているはずはありません。そうではなく、我々がそう自覚しているかどうかはともかくとして、例えば米ドルのような日本円以外の通貨だけを用いていると納税できずに脱税として捕まってしまうから、日本円を必要的に使用しているのである、と言えるわけです。その意味で、MMTの租税貨幣論の方が、主流派経済学の商品貨幣論よりも、より現実に即した説明をしていると言えるでしょう。

ここで重要なのは、主流派経済学の商品貨幣論は、私人同士が、取引の便宜の観点から、特定の商品を貨幣として自発的に選び取ってきたという発想をするのとは全く対照的に、MMTの租税貨幣論は、通貨というものは、個々人の自発的な合意や自由意志に基づくものではなく、国家権力による強制によって成立していると考えているという点です。

3. ヒュームの社会契約説批判

ある現象が、実は個々人の自由意志によるものではなく、国家権力の強制によって成立しているのだ、とする発想の転換は、社会契約論及びそれに対するヒュームの批判(「原始契約について」)の議論を想起させます。それらの議論は、要約すると以下のようなものです。


社会契約論は個人の自由意志を根拠とする

まず、社会契約論とは、政治思想の分野における国家の成り立ちについての理論の一つで、国家や政府は、個々人の自由意志に基づく合意によって成立するという考え方です。すなわち、個々の人々が自発的にある種の契約を交わすことによって、共通の安全や秩序を保障するための政治体制が形成されるとされます。この理論は、自由や権利の保障という近代民主主義の理想とも深く結びついており、個々人の自発的な意思決定が国家の基礎となるという前提に立っているのです。

実際の国家の成立は暴力的である

しかし、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは、上記のような社会契約論に対して鋭い批判を展開しました。ヒュームは、「原始契約について(Of the original contract)」というエッセイにおいて、国家は、人々の合意によって成立するのではない、人々は国家の中に生まれ落ち、国家の権威を受け入れるのであると主張しました。そして、実際に、国家というものは、侵略戦争やら内戦やらによって暴力的に成立することが多く、その国家が長期にわたって存続すると、時間の効果と慣習によって、人々は、その国家の権威を受け入れるようになるのである、と主張したのです。

確かに、考えれてみれば、例えば私のような生まれながらの日本人は、基本的に誰一人として日本人になることを選んだわけでもなければ、日本国という国家を成立させることを合意したわけでもないですよね。単に、すでに存在していた日本という国家の中に生まれおち、それを受け入れて生きてきたというだけであるというのが、あるがままの現実でしょう。その意味で、ヒュームの批判はまさに現実に即していると言えるでしょう。

5. 租税貨幣論とヒュームの批判の共通点について

ここで注目すべきなのは、MMTの租税貨幣論とヒュームの社会契約論批判に共通する視座です。両者は、現実をつぶさに観察した上で、国家や通貨などの対象物の根本的な仕組みが、個々人の自発的な合意や自由意志に基づくのではなく、国家権力の強制によって成立しているという点を共通して指摘しています

租税貨幣論における国家権力の役割

まず、MMTにおいては、国家が租税という形で自国通貨の使用を国民に義務付けることで、貨幣の流通が保証されると考えられています。国民は、租税を納めるためには国家発行の通貨を保有せざるを得ず、結果として通貨の流通が維持される仕組みになっているということです。これは、自由な市場メカニズムや個々の意思決定だけでは説明できない、国家権力の強制的な作用が働いていることを示しているのです。

ヒュームの批判における実際の国家形成の現実

ヒュームの社会契約論批判においても、理想化された社会契約論が描く「個々人の合意」による国家成立という考え方に対して、実際の歴史を見ると国家は暴力や侵略によって形成され、その権威を人々が事後的に受け入れる形で成立していると主張されています。すなわち、国家の正当性やその成立過程は、単に個人の自由意志や合意だけではなく、強制力による側面が大きな役割を果たしているのです。

このように、租税貨幣論とヒュームの社会契約論批判はいずれも、国家や通貨が単なる個々人の自発的な合意により生まれたものではなく、国家権力による強制や制度によってその基盤が固められているという共通認識を持っています。

ヒュームとMMTの思想的関連性

意外と思われるかもしれませんが、経済学の系譜で考えるならば、このような共通点は、むしろあって当然なのです。制度経済学の創始者の一人であるジョン・コモンズが、「制度経済学はヒュームにまで遡る」と述べている通り、ヒュームは制度経済学の先駆者と位置付けられています。一方で、MMTについてみてみると、望月氏もnoteで述べている通り、MMTの思想的源流の一つには制度経済学があるとされています。

つまり、MMTは、制度経済学という経済学上の思想的潮流を通じて、ヒュームにまで遡ることは可能であり、このような思想的な共通点は、むしろ必然的でさえあったのかもしれません。

6. まとめ

上記のようなMMTの思想的基盤についての指摘は、現代の政治経済や金融政策においても有意義ではないでしょうか。例えば、国家の財政運営や中央銀行の政策決定において、単に市場原理や個々の自由な取引だけではなく、国家の制度的・強制的な側面が果たしている役割の重要性がよくわかると思います。

特に、通貨や国家といった仕組みが、強制的な権力によって基礎付けられているにもかかわらず、それらがむしろ国民の自由を保障するように機能しているという点には留意すべきです。

もし仮に、完全に個々人の自由に任せれば、人々は共通の価値尺度なしに取引をすることを余儀なくされたり、あるいは「万人の万人による闘争状態」の中に放り込まれたりしてしまう、というわけです。本来の現実とはカオスであり、その中で何の頼りもなしに個々人が生きていくことは難しいからこそ、国家や通貨という半強制的な制度が存在するわけです。

権力や強制力に基礎付けられた制度は、そうであるがゆえにむしろ人々を世界の不確実性から保護し、個人の自由を保障しているのであり、その観点から貨幣について説明しているのが、MMTの租税貨幣論である、ということが出来るでしょう。この記事によって、MMTの思想的淵源やその意義について、より議論が深まれば幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!