レヴィ=ストロース 構造主義 を考察する
レヴィ=ストロースは哲学者という人類学者として社会では認識されている。1900年ごろまでの人類学者は、安楽椅子にもたれ書物を読みながら異国文化を調べていた。自国より一歩も外に出ないで異国を調べるのである。
このような安楽椅子学者のイメージを一変させたのが、レヴィ=ストロースである。彼は、フィールドワーカーとして現地へ赴き、暮らし、文化に溶け込みながら調べるのである。今では当たり前の調査方法を実践した先駆けである。
不可視の構造
彼は『悲しき熱帯』の中で熱帯の部族を調べていく中である共通項に気が付く。どの部族も婚姻に関して奇妙な共通ルールがあるのだ。日本ではいとこ同士の結婚を認めている。しかし多くの未開社会では、いとこ婚におけるルールがあるのだ。「平行いとこ」は禁止、「交叉いとこ」はOKというもの。同性の兄弟姉妹の子供は結婚不可、異性であればOKなのである。
なぜこのような共通ルールが生まれたのか?遺伝子学的にも根拠なはい。人間の生存本能として埋め込まれているもの、もしくはそのような結婚のほうが遺伝子的に有利だから、などの理由だろうか?これについて、出した答えは、違う家に嫁いだ姉妹の子供と結婚したほうが家同士の交流が広がる、というものだった。さらに、もう1つ世界共通の禁忌として挙げられるのが、近親相姦(インセストタブー)だ。
未開の地は明らかに情報社会からは隔離されている。その隔離された未開の部族同士がみな同じルールを採用しているとは些か不思議である。偶然の産物で片付けることも雑であるし、各部族に伝播したとも考えにくい。
さらに不可解なことは、彼らにルール採用の理由を聞いても「知らない」と答えるだけなのだ。なぜ意味不明のルールを採用したのか?
これについて、レヴィ=ストロースは、このように回答した。「この世界にはもしかしたら、このような婚姻方法であれば交流が広がり、社会が発展するという隠された構造が存在し、未開人はそれを無意識にくみ取っているのだ」と。
インセストタブーは、社会を閉じて消滅させる不利な行為を禁止することで人類社会を成立させたのである。インセストタブーこそが社会を成立させる構造なのである。さらに婚姻規則によって、近隣家族、親族集団と仲良く、友好的に関係を維持することで、資源の分配をスムーズに行い争いを抑え平和的な生活、秩序を持つことができるのである。
「結婚とは女性の交換」である。インセストタブーは女性を他の集団への移動を促進させる。
それにしてもこれは飛躍のし過ぎではないのか?
世界には秘密の仕組みがある。
その仕組みを私たちが無意識に選んでいる。
通常、私たちはルールを議論や交渉を重ねて作り上げる(条約、協定、コンプライアンス、法律、条令など。)。人間の意志→ルールという流れであるが、これを真っ向から否定するのが構造主義だ。すでに在るルール→無意識にくみ取る、となるのだ。これはまさしく西洋が標榜し、信じてきた理性と意志の否定である。これこそが、未開を渡り歩き導き出してきた答えであり、安楽椅子学者にとっては衝撃の一語である。
誰が勝つかわからないゲームの考案、例えばジャンケン。
石、ハサミ、紙
火、へび、水(沖縄のブーサー)
共通していることは、「三竦み」の構造の存在。
人間社会は必ずしも意志によって作られるものではない。初めから埋め込まれている構造や仕組みから作られる。だからこそ未開の隔絶したところに共通ルールがあるのだ。
この構造主義がサルトルを代表とする実存主義に痛打を与えた。
実存主義者は「世界に本質はない。自分たちの意志で決めるのだ。世界に意味を与えるのがワレワレだ。」と主張。このような精神論・抽象論は、60年代から70年代には抑圧からの解放で魅力的だったが、皆が異口同音に唱え、デモを起こし、革命まがいのことをしてくると社会の厄介者となる。(日本の左翼の衰退、社会党の惨状)
意志だ、決断だ、という前に世界に隠されている構造を理解することろから始めたほうがよいのでは?という哲学なのである。
構造主義の蹉跌
構造主義には、「構造」を明らかにする以上の主張はない。「構造主義によれば、何が明らかになるのか?」・・・何も明らかにならない。たとえば文学や絵画や映画などの作品に感動した仕組みは明らかになっても、何故、作品に感動するのか、それ自体に答えられない。あくまで、「構造」論は、「構造」を明らかにする以上のことはできない。これはある意味、実践的ではないのだ。経済学において、五十年前、ケインズ経済学によって批判された当時の経済学とも似ている。不況の原因はここにあるという指摘はできても、実際に、どう対処すればよいのかについては、何も指摘できなかった。そこにケインズ経済学は、経済学の使命は経済のコントロールにあるという、価値観を持ち込み、優れて実践的な経済学を創設することに成功しました。現在はともかく、当時の経済を復興させるという役割は、十分に果たした。そういう意味で、構造主義とは、極めて意味無内容なものになってしまう。
構造論は、確かに「構造」を明らかにしようとした。しかし、経済学や、政治学、経営学などは典型だが、提示するものは、一つの「モデル」に過ぎない。人類有史以来の構造を明らかにした学者は、未だかつて存在しない。構造論も、たとえ、通常の解釈論よりも一歩上の視点で議論しているものだとしても(論理学の言葉を借りれば、メタ論理ならず、メタ解釈)、何らかの価値観、主義主張からは、無価値であることは不可能だ。ここで、構造主義は、意味有価値にも、意味無価値にも成りきれず、論理破綻をきたすのだ。結局、構造主義は、理論として中途半端になってしまったのである。
「問題点を認識しながら、その問題から逃げているだけ」になってしまいかねない。結局、どれも正しいということは、どれも選べないということだ。行動原理が存在しないのだ。行動とは「考えの具体化」である。具体化ではじめて世界に色をつけることができるのである。