眠れる美女 川端文学 を考察する


川端文学の到達点

小林秀雄曰く「川端は小説なぞ1つも書いていない」さらに「天稟が命ずるままにその犠牲になって、無能者のような純粋さでそれを信ずるところに成立する文学。

俗に言う「小説」は人物の葛藤やストーリー作成に血道をあげる。しかし川端は関心がない。無垢な心情と形象の美学が一体化した「詩」である。さらに少年にして老人、少年の心で世の馬鹿らしさ、哀しさ、虚しさを見抜いたのが川端。

老人文学

この短編は「老人文学」の最高峰である。老人文学の系譜を遡ると世阿弥の「風姿花伝」である。秘すれば花、是非初心、時時初心、老後初心はまさに老人文学の出発点。体験と教え、理論を融合し幽玄の具現化、詩境ともいえる能の世界を語る文学。
ちなみに方丈記は厭世文学である。
世阿弥の次は、芭蕉。「不易流行」老荘思想に傾倒し、旅に出る。閑寂さと枯淡の極みを求める姿が老人文学。文学となるには美しさが求められる。これを耽美派的に継承したのが川端。

同じような耽美でも谷崎や鏡花とは大きく異なる。鏡花は、万年若女形。谷崎は、「鍵」「老人日記」を書くが、これは老人の欲情の哀れさを戯画化している。むしろ老人の醜悪さを強調。

眠れる美女は、「尽きせぬ夢」が書かれている。具体的には男性の処女崇拝、清純さ、煩悩具足の生き地獄、さらに不能者ではないことへの意地っ張り、陶酔感、が入り混じり最後に死と遭遇する流れには、恐ろしさおぞましさがある。この迫力は、溝口健二の「雨月物語」を彷彿とさせ、幽艶美が見て取れる。歌舞伎ではなく、能の世界観を表している。

例えば、江口に注意をする家のやり手婆さんも能的である。家の中は音もなし、人影なし。これだけで妖怪譚である。しかも、会話はこの二人だけで、この効果が幽玄さを際立たせている。江口がどこに住み、その日常、例の家との距離など一切の日常を省いていることも川端マジックの常套手段。「薄い唇をあかぬほどに動かせ、相手の顔をあまり見ない。」これも能面のような描写である。


「眠れる美女」


シテ やり手婆さん
ワキ 江口

という構造である。眠れる美女たちはシテツレ。能のワキは、作者の代弁者である。現世と幽界をつなぐ役割になっている。この意味でワキは観客に最も近い存在であるので、この小説では江口となる。読者は江口と一体化し、怪しい体験に身をゆだねるのだ。幽艶美を体験するのである。江口はある意味、平凡な老人だが、婆さんの悪魔的な凄みある描写によって老人臭さが文学へと昇華した。
どの場面においても老境の嘆きがない。嘆いたのでは、陳腐なリアリズムで小説が崩壊する。江口が女性関係に思いを馳せていくことで、終末寸前の人間の歓喜と法悦、そして慟哭が描かれている。この純粋さ、無垢さが川端の真骨頂である。

構造
①やり手婆さん、部屋に通される。お茶、美術品、高級感。娘が眠らされて横たわっている。
②半月後に再訪。艶な少女。自分の娘とこの少女との対比、生の誘惑も生の回復への悲しい願望がやや滑稽に描かれている。
③8日後に三度目の訪問。過去の生々しい連想。僕も薬を飲んでみたい。「永久に目を覚まさなかったとしても、僕は悔やまない」ここがラストへの伏線である。
④最後の訪問 「頓死したら、老人の極楽」「老人は死の隣人」「死霊が部屋にいるのでは」と江口が語り、やり手に死んだ老人の話を聞き出す。母の臨終の回顧、目覚めると黒い娘の方が冷たくなっている。娘を運びだす車の音、反対に白い娘は輝く美しさで横たわる。あたかも人形のような冷たさすら感じる描写である。

川端が体現したのは「虚無の美」これが淫靡さを昇華させている。さらに鑑賞の饗宴あり、それ自体が枯淡の老人の思考で書かれている。川端の美学と思想がここまで反映された本はない。

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