何をやっても続かない娘と、心の病に理解のない両親
「何をやっても続かない」というと、なんだか落語の主人公みたいだなあと思う。
しかし検索してみてもそんな話は出てこなかった。なぜだ。私はなぜそんな発想に至ったんだ?
私の両親は、「自分でやると決めたなら最後までやり遂げなさい」という人たちだ。子供の頃から習い事を辞めることは許されなかった(だから祖父は剣道を「破門」という形で辞めさせてくれたのだと思う)。
中学生3年生で部活を辞めたときのことはよく覚えていない。
祖母が癌で入院して、家の中がバタつき、私も家事に参加するためしばらく部活を休んだ。
退院後、ようやく落ち着き始めたころ、部内で「アイツはサボりだ」というような噂が広まっていて、嫌になって戻れなくなった……と記憶しているが、実際はどうだったか。
そして、なぜそのとき両親が辞めることを許したのかもわからない。
高校生になり、私は吹奏楽部に加入した。
各学年40人近く所属する大所帯で、コンクールでの成績も良く、そこそこ名の知れた学校だった。
純粋に音楽がやりたかった、というのもあるが、「これだけ人がいれば友達もできるだろう」という下心もあった。中学入学時、クラスに馴染めず1年間ぼっち生活を送った苦い経験があり、出だしの重要さを身をもって学んでいたのだ。
さて、この部活でも精神的に辛くなり、3年生の初夏で辞めることになる。(機会があったら書きます)
この時、辞める数ヶ月前から、食欲が無くなりご飯が食べられなくなっていた。
母の作ってくれた弁当が半分も食べられない。
受験生だから脳に栄養がいかないと困る、ということでプリンやカロリーメイトをよく食べていた。
見かねた友人が、私の好きなチョコミント味のお菓子を見つけては買い与えてくれた。が、みるみる痩せていった。
そんな状況下にあっても、両親は「甘えるな」の姿勢を崩さなかった。
これはもう胃に穴を開けて入院するとかそういうレベルにならなきゃ無理だ、と考えた私は、部活の怪我が原因で通院していた病院から処方されたボルタレンを大量に飲み続けた。いわゆるODだ。セットの胃薬ばかり溜まっていった。
けれども丈夫に産んでもらったおかげか、腹痛も何も起きずピンピンしていた。鼻の奥に石油くさい臭いだけが残った。
(余談だが、私はすぐにお腹が空いたと騒ぎ、赤ん坊の頃から滅多に吐かなかったので、家族から「腹減らし」「一度口に入れたものは意地でも出さない」と評され、「こいつが吐くってことはよほどおかしい」という一つの判断基準とされていた)
毎日ストレスで下痢をしていたうえ、食べていないこともあり、保健室のお世話になることが増えた。
ある日、耐えきれなくなって保健室の先生に全て話した。
担任と親に連絡がいき、そこでようやく私は部活を辞められた 。
つまり学校の介入が無ければあのままだったのだ。
さて、そんな「続かない」前科持ちの「根性なし」が就職して、半年も経たないうちに、またもやメンタルをやってしまった。
今回は精神科医から病名がつけられた。「適応障害」と「不眠症」だ。
比喩ではなく、世界が色褪せて見えた(離人症の一種だと思う)。
そしてまたご飯が食べられなくなった。が、激辛の汁なしインスタント麺なら食べられることに気づき、ブルダックを箱買いして毎日食べた。本当は、辛いものは大の苦手で、カレーも甘口でなければ食べられないレベルなのに。一種の自傷行為だったのかもしれない。
心の病に理解のない親に報告するのはおそろしかった。が、するしかなかった。
遠く離れた場所に一人暮らしという状態はさすがに心配だったのだろう。返ってきた返事は意外なことに「帰っておいで」だった。
そこから1年間、実家で専業主婦のような生活をしながら療養した。大学時代、ジェンダーの講義で女性の貧困問題に触れた時、「『家事手伝い』という名の無職」というワードが記憶に刻まれていたけれど、まさか自分がそうなるとは思わなかった。
両親は「早く仕事しろ」と急かすことはなかった。むしろ、焦る私を「まだ早い」とたしなめていた。
だいぶ良くなって、年が明けてから社会復帰のリハビリのためにバイトを始めた。大学時代はテーマパークで働いていて、天職だと思っていたので、マク◯ナルドの接客特化スタッフに応募した。
先輩が怖すぎて不眠症が悪化し、2ヶ月ほどで辞めた。
この時も、両親からはあまり何も言われなかったように思う。
その後、4月から役所の非正規職員になった。
観光など市のPRを担当する部署で、普段はオフィスで正規職員の手伝いやSNSの運用などに従事し、詳しくは言えないがイベント時に活躍する仕事だった。
やりがいはあった。職場の人たちは皆、礼儀礼節を弁えた大人で、非常に良い環境だった。
けれども、最初から長く続ける気は無かった。
「せっかく大学まで出してもらったのに非正規である」という後ろめたさ、恥ずかしさ。
「自立したい」「都会で自分の人生を生きたい」という願望。
「何事もやってみなければ気が済まない」性格だ。去年の秋頃から就職活動を始めた。
接客が天職なのはわかっていたが、役所で土日祝休みの内勤を経験した結果、長く続けるならこういう仕事だろうと判断した。文章を書くこととタイピングが好きだったので、編集の仕事を探した。
お祈り続きで焦っていた2月、2社で最終面接に進んだ。
1社は新聞社。取材記者が書いた記事を紙面にする「編集記者」を希望していたが、1次試験で作文の出来を褒められ、このままいくと取材記者になりそうだった。
コミュ障で取材なんて無理、そのうえペーパードライバーで車の運転をしない仕事をさがしていた私は迷っていた。
最終面接1週間前、もう1社から連絡が来た。
新聞社の面接の前日に面接を受け、その場で内定が出た。帰りの電車で、新聞社に辞退とお詫びのメールをした。
そうして4月から働き始めたのが、今の会社だ。
両親は「向いていると思う」と背中を押してくれた。
あのときの私に言いたい。
その会社だけはやめておけと。
むしろもっと前に遡って言いたい。
そのまま役所に、実家にいなさい。非正規でもいいじゃない。その方が幸せだよと。
今、私はまたご飯が食べられなくなっている。
職場には毎日弁当を持参していた(忙しすぎて食べられない日もあった)が、それがおにぎり2つになり、先週末はついに持って行かなくなった。
前回は激辛麺だったが、今回はクッキー的なものなら食べる気になれるので、カロリーメイトという名選手のお世話になっている。仕事しながらでも食べられるのでより都合が良い。もともと、お弁当を食べる暇が無い日のためにデスクの中に常備していたものだ。
食べられない状態で最低13時間休憩無し。睡眠時間はなんとか5時間、と言うと余裕そうに聞こえるが、エスタロンモカというカフェイン剤を1日4回ほど飲んでなんとかやっている状態だ。
前述の通り、丈夫に産んでもらったおかげで、今のところはピンピンしている。が、このままだとマズイのは明白だ。
「心身ぶっ壊れる前に逃げるが得策、仕事はいくらでもある!」
という考えなので、辞めることに何の抵抗もない。が、ボスは許してくれないし、親からは「またか」と非難されている。
さすがにぶっ倒れれば考え直してくれるだろうと、しばらくこのまま耐え忍ぶ所存だ。
高校時代、部活を辞めようとした時と同じ手段。しかしもう保健室の先生はいない。本当に壊れるまでやるしかないのだ。
このように、精神的な病気はおろか、軟弱者に対する理解の無い親でも大切で、私は、実家に戻って一緒に暮らしたいのである。
毒親ギリギリラインかもしれない。が、恨みなんてほぼ無くて、本当に大好きなのだ。
次回は、親と地元の話を書こうと思う。