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ちょっとダンディズム
高倉健は、常に憧れの存在だ。CMのセリフ
“男は 黙って サッポロビール”
で打ちのめされた。力を抜いた自然な口調での一言。しかし、説得力ありすぎだ。50になっても60になっても、その虚飾ない一言は、真似すらできなかった。人と接する時、一歩引いて謙虚な態度で臨む姿勢は、ダンディズムの極みに見えて仕方がないのだ。
中学2年生の時、学校で盗難があり、私は容疑者扱いされた。小学生の頃、万引きをしたことがあるのが、理由だそうだ。担任の美術教師は、私に自白させようとした。しかし、やっていないのをやったとは言えない。しかし、担任は、それを絶対認めなかった。
あれこれ質問し続ける担任の目を、黙って直視する私。「やっていない」の一言しか言っていない。意味もなく時間が、過ぎていった。埒が開かない。私は、立ち上がった。入学した時150センチだった身長が、毎晩のように成長痛に苦しみ、25センチ以上も伸びていた。
「何だ、その態度は!」と叫びながら立ち上がった担任とは、首ひとつ違っていた。担任の目には、恐怖感が見えた。私は、ニヤリと笑ったようだ。その瞬間、ビンタが飛んできた。そして、すぐに次がきた。往復ビンタは、止まる様子もなく続いていった。唇が切れて血が...。
教室の戸の辺りには、たくさんの目が集まっていた。ビンタは続いたが、私は血の味を感じつつ黙っていた。「手を出すな!」と、聞き覚えのある友人の声が聞こえた。担任は、泣きながらビンタを続けた。見かねた何人かが、教室に入って来た。それを察して、担任は逃げ出した。教室にドヤドヤと人がなだれ込んで来た。
その後、先生は誰も来なかった。私は、黙って家に帰った。母親が「その顔、どうした?」と聞いたので、「自転車で転んだ」と言った。学校からの連絡は、なかった。翌日、いつもの時間に登校した。学級には、主任の先生が来たが、私には何も言わなかった。
3月、担任は山奥の小学校に転勤した。友人たちが「追い出した」などと口々に言って騒いでいた。私は、どうでもよかった。おそらく、病気だったんだろうとだけ思っていた。その頃高倉健は、まだ知らなかった。
急に大きくなってしまった。それが、とてつもなく恥ずかしかった。家では、部屋に入る時鴨居に額をぶつけた。身体測定では、178センチだった。祖母が「六尺の大男」と言った。学校の机・椅子は、中3になった時、1と番号が付いた大きめの物になった。
高校入学後、身体検査では180センチと言われた。ただし、私と同じぐらいの身長の同期生は、たくさんいた。体重は、60キロそこそこで、「マッチの棒」と言われた。嫌だったのが、座高を測って、保健の先生が「学年一番」と言ったために、「座高王子」という不名誉なあだ名を付けられたことだ。
自分は「ウドの大木」だと思うようになっていった。同級生に優秀な女の子がいた。彼女は男女の隔てなく、気楽に話せる相手だった。高校が、一応地域一番の進学校だったので、テストが連続して行われていた。必ず彼女は、私の点数を見にくるのだ。その学力差は歴然としていた。彼女のコメントは、いかにも天然ちゃんの言い方で、全く気にはならなかった。
何度目の模擬テストの結果が配布された時だっただろう。いつものように、天真爛漫ちゃんが、やって来た。そして、私の点数を見るなり「〜君、どうしてこんな勉強ができないの?」と、はっきり言った。近くにいた女の子たちがクスクス笑った。私は、開き直ることも感情的になることもなかった。笑って誤魔化した。嫌な気持ちにさえもならなかったのは、彼女のキャラクターゆえのことだったと思う。
彼女とは、3年間同じ学級だった。3年生は成績別のクラス編成をする学校だった。彼女は当然のように在籍していた。私は、欠課ゼロだけが取り柄だったが、結果は何も出していないまま割り当てられた。その文系トップクラスは47人在籍していた。定期テスト結果が、自宅に郵送されていた。私は、全部が47人中47番だった。常にビリだったというわけだ。
その頃だったか、高倉健のCMを見た。「黙って」が気に入った。これでいこうと思った。男は黙って、言いわけはしない。過去の出来事は、戻らないから。それが「男らしさ」だと、自分で勝手に決めた。しかし、勉強はろくにしなかった。友だちは、たくさんいたが、限定したグループに固定することなく渡り歩いた。音楽仲間、インベーダー仲間、麻雀仲間と、つきあいは多岐に渡った。誰かが、私を「中間派」と言った。私は、自分の興味に任せて、つきあうグループを変えただけだ。受験期真っ最中の高3が、遊び盛りだった。
1月、大学入試センター試験を受けた。点数は、本人に知らせない。私の自己採点は735点だった。5択問題ばかりだったので、模試に慣れていれば取れる点数だ。彼女は、850点ぐらいと言っていた。なんだ、100点しか違わないのかと思った。結局、彼女は現役で地元国立大学の文系で一番難易度の高い学科へ進学した。私は、全部落ちて浪人生となった。
結局は、東京のMARCHの私大を出て、なぜか中学校の教員になった。地元は、「若干名」という言葉で、採用の枠がないことを告げていた。そこで縁もゆかりもない他県を受けて、まぐれ当たりで採用になったのだ。採用2年目、父が癌と診断され、大手術を受けた。母はパート勤務、9歳下の妹は高校生だったので、懇願して2校目を地元に近い学校にしてもらった。
採用5年目、地元の小学校に勤務している友人から電話があり、現役枠ができたと教えてくれた。言われるまま受けてみたら、すんなり合格した。応募時点で採用が決まっていたと、後から聞いた。採用枠が狭く、地元で何年も臨時講師でいる仲間が、多くいた。結局は、近道だったのかと、得をしたような気にもなった。
県民性と言うのだろうか。1校目も2校目も規模は違えど、生徒の雰囲気はドライそのもので、男は男らしく、女は女らしくふるまい、好感を持っていた。合格通知を校長から受け取った時、素直に笑顔が出てこなかった。
複雑な心境だった。まず思い出したのは、中学時代のビンタ事件だ。あの担任は、60歳そこそこで亡くなっていた。男らしさが微塵もない教師たちの群れに入るのは、何だか気が進まなかった。今の学校から実家まで、国道1本道で110キロ。頻繁に帰っていた。父も名医に救われ、職場復帰して管理職のトップになっていた。妹は、短大に進学して保母になると聞いていた。つまり帰る理由が、なくなっていたのだのだ。しかし、時すでに遅しだった。
それでも現役枠ゆえに校長から推薦状を書いてもらい、「うちで育てた人材を取られる文書を書くとはねえ」と嫌味を言われたり、全県の学校に散らばった初任校の先輩たちが、自分たちの同窓会的なノリで、30名以上の参加者による送別会を催してくれたりと、もう後戻りできるような状態ではなくなっていた。
時は自分の都合に関係なく、過ぎていく。初めての高校入試や卒業式などをこなしつつも、3月半ばに何とハガキで新任校の知らせを受け取った。穏やかな160名の生徒数の学校から逆戻り。赴任先は、マンモス校とまではいかないが、1000人超の大規模校だった。林業の町らしい、天然木フローリングに可変可能な教室にオールウッドの体育館という魅力ある校舎と別れ、プレハブもどきの30年経過校舎。気乗りするはずもなかった。
高校卒業以来、10年ぶりの実家での生活が始まった。正直なところ、照れ臭い思いを抱えていた。29歳にして親がかりなんて、カッコ悪すぎる。家族とはいえ集団生活。すぐに馴染めないのは、当然のことだ。勤務先には、クルマで20分程度。朝6時に起きたら、母が朝飯準備完了。すぐ食べて、身支度すれば6時半。間がもたないので、出発した。
7時前には、到着。セキュリティを解除して無人の職員室に入る。この生活は、ずっと続いた。帰りは、何だかんだで夜9時過ぎ。たまに7時に帰宅すると、「どこか具合悪いのか」と母に言われた。「別に」と返答した。
勤務先は、ウェットな人間関係に満ちて、酸素が薄い感じだった。予想どおり「お局様」が何人かいた。「いい年なんだから、お嫁さんもらわないと」が、ルーティンだった。また、飲み会が、週に3回はあった。「男は黙って」を気取っている場合ではなかった。巻かれたゼンマイがほどけていく感覚に悩まされたが、ほどけ切ると、もう平気になった。
5月のある日、10年ぶりの再会があった。例の天然ちゃんが来ていた。育休中で、事務に何らかの手続きをするために来ているようだった。ここに彼女が在籍していることは、友だちたちによる歓迎会で教えられていた。その時、私は、ちょうど空き時間だった。
手続きが終わったようなので、声をかけた。「よう、久しぶり!」と言ったら、彼女は驚いた顔で、「どうしたの?〜君、どうしてここにいるの?」と返答した。「働いているんだ」と言ったら、「何の業者さん?」と。通じないなと言葉を探していると、教頭が「〜先生は、この4月から本校に勤務しています」と口を挟んできた。彼女は、しばらく驚愕の表情で、口がきけなかった。「そうなんだ。よろしくな」と付け加えた。彼女は、やっと納得したらしく、楽しい昔話をいくつかして帰った。
その後、野次馬たちがいろいろ質問してきたが、曖昧に答えた。彼女がビックリするのを見て、私もビックリした。しかし、全く悪い感情は出てこなかった。こんな再会もあるもんだという自分の落ち着いた振る舞いに、ちょっとだけダンディズムを感じて嬉しかった。
その後、勤務先にも馴染み、彼女も復帰してきて、なかなかおもしろい教員生活を送った。同じ職場に同級生がいるという経験は、これが私にとって最初で最後だった。
彼女は、40を過ぎてまもなく、不治の病で亡くなってしまった。もう再会して、天然ちゃんの言葉を聞けなくなってしまった。寂しい。本当は、彼女が好きだったんだ。それは今も変わらない。永遠に変わらない。