「M」の時間
2年間の安穏な教職大学院(出張扱い)生活を終えて、通常勤務に戻った年。所属していた中学校で、3年A組の学級担任を命ぜられた。全校生徒1,100名余。当時の3年生は、全8学級。生徒数350人余のリーダー学級たれというお達しであった。
勤務校は、荒れていた。問題行動も続出していた。ただし、その中身が、以前とは大きく変化していることに気づいた。以前に比して、生徒たちの心の潤いは激減していた。枯渇状態に陥っているケースもあった。何よりも、不登校生徒の激増が、物語っていた。
教職大学院で臨床心理学を専攻して、生徒理解の方法論を学んだことにより、こうした感じ方ができた。しかし、当時の同僚たちの感性は、こんな状況でも鈍かった。後輩から「癒しとはどういう意味ですか?」と、真面目な態度で質問された時、薄々感じていた危機感は現実のものになった。
こうした学校には、「心理教育」が是が非でも必要だ。学んできた机上の理論を現実化せねばと、思うようになった。1人の学級担任による孤軍奮闘では、単なる焼け石に水だろうが、「先づ隗より始めよ」という言葉を胸に、約2年ぶりにやる気モードを全開した。
通常の道徳の時間を「M」という名称に書き替えたのである。「M」とは、Moral & Mind であることを説明し、心の温かみや潤いの大切さについて、私の思いを語った。
Mの時間を核として、担任学級での「心理教育」は、よろよろとスタートした。まずは生徒の多くが授業を好きになることを目標とした。その取組について、具体的に紹介してみようと思う。
Mの時間では、各種心理学の知見を活かした授業を行った。まずは、ローレンス・コールバーグによる道徳性発達理論である。一番簡単な言い方をするなら、「道徳性は、価値葛藤により成長する」という考え方である。
この理論を授業ベースに乗せたのは、兵庫教育大学教授の荒木紀幸先生の研究成果である。そのノウハウを学ぶべく、荒木先生主催の夏季研修会(後に日本道徳性発達学会になった)には、遠路はるばる3回ほど参加した。
ここでいうところの「葛藤」とは、善悪の判断などの単純な心の動きではない。価値と価値とが相反関係にあって「あっちを立てれば、こっちが立たず」状態であることを示している。この対立軸により、ディベート討論的な授業が行われた。まさに「喧々諤々(けんけんがくがく)」の話し合い活動だった。次に、アメリカのSFドラマ”トワイライト・ゾーン “をモラルジレンマ資料にした、自作学習シートを示す。
生徒たちの率直な感想は、「おもしろいけれど疲れる」というものであった。本物の価値葛藤の経験は、生徒たちをやる気満々にした。その反面、トラウマになりかねないストレスフルな活動でもあった。そのため、道徳以外のM。すなわち、Mind にも目を向ける必要性が生じたのである。ケアが必要になったからである。
次に注目したのが、来談者中心療法で名を馳せた、カール・ロジャースによる集団カウンセリング(エンカウンター・グループ)である。
この考え方を日本に広めたのは、筑波大学教授の伊東博先生であった。伊東先生主催のワークショップで、ニュー・カウンセリングと呼ばれる様々なセッションを経験させてもらい、それらが授業のベースとなっていった。
そうした考え方による「構成的エンカウンター・グループ」の資料の一例を示す。これも自作。テーマは「小集団の意思決定」である。
それぞれの家庭が、それぞれの事情を抱えている。そこに、どう「おりあい」をつけていけばいいのか。5人グループで、相互に気遣いある話し合いを行い、全員の納得を目指すというセッションである。
モラル・ジレンマによってエキサイトした心のトゲトゲを、エンカウンターで滑らかに修復していく。心理教育を「動」と「静」に分けて実施する考え方は、私オリジナルである。こんなMの時間に、生徒たちは食いついた。そして次の授業を楽しみに待つ様子も見られた。
モラルジレンマの授業は、全県規模の道徳研究会で提示された。概ね好評を得たものの古狸どもの化石化した正論?も聞かされた。また、エンカウンターは、ファシリテーターという概念に関して、教師側の理解が進まず実施しようとする動きも少なかった。そして3年A組を最後に、学級担任外の立場を命ぜられた。Mの時間は、1年限りで終了した。
教師たちは、道徳の時間を軽んじて、教科の授業の補填や、行事の準備に使うようになっていった。それでも時代の流れなのであろうか。学校は、なぜか鎮静化に向かっていった。ただし、私の目からは、「覇気」が衰退しているとしか感じられなかった。
心の弱体化を感じたという言い方が、適切かもしれない。実際問題として、不登校生徒数は増えて40人を超えた。問題行動が、反社会的から非社会的に変わっただけだと、私なりに解釈した。生徒指導担当としての、率直な印象である。
3年A組の成人式後に行われたクラス会。何と全員集合で行われた。大騒ぎして過ごした。そういえば、学級訓は「楽」の一文字だった。この字をどう読むクラスになるのかいつも問いかけたものだ。このクラス会の挨拶で「この字を今、どう読んだらいいのか?」と改めて問いかけてみた。
二十歳になった彼らは、あの時と同じ質問に「楽しい!」と全員が答えた。それでいいのだと思った。私にとっても、楽しい思い出として、心に残っているからだ。
この文章は、文藝春秋社の「未来のためにできること」コンクールに応募するつもりで書き始めた。しかし、1000文字以内という制限字数内には収められず、応募は諦めつつ書き綴ったものである。
2030年が達成目標であるSDGsを意識しつつ、教育が未来ためにすべきことは、豊かな心を育むことだと考える。自分の未来のためだけの知識だけではなく、苦しむ人々への思いやりの素地を創ることである。デカい言い方になるが、それが学校教育の使命だと思う。だから、心の教育が大切なのだ。
そして、子どもたちには豊かな心の大人になって、この生きにくい社会を背負っていってほしい。既に役割を終えた者の無責任な発言として、現役教師たちに期待している気持ちを伝えたかった。
いわゆる「道徳」も、教科化されるなど、妙な状況に向けられた。これでは、教師の創意工夫など重要なことではない。学習指導要領の指示に従えば、それでいいのだ。お上が決めたことに逆らう骨のある教師は、いないだろう。せいぜい指定時数確保のみだろう。
そして、道徳科の時間を楽しみに待つ子どもたちも、いないと思う。大手出版社が出している「副読本」のつまらなさを知っているから、こんな言い方になってしまう。良いことをする人は、良い人だ。そんなわかりきった内容で、自己を見つめ直す子どもは、いるのだろうか?それで、心は育つのだろうか?
私の実践は、「亜流」と呼ばれた。時として「自己流」と言われた。しかし、静まりかえった教室で、指名されるのをドキドキして、先生が正解だと言ってくれる答えだけを考えている無意味な時間ではなかった。
さあ、心理学を学ぶべし。そして、未来のために心理教育を実践すべし。学校は、心を育む場所にすべきである。 fin.