始まったばかりの旅、道半ばの志――翻訳家・天野健太郎さんの訃報に接して
翻訳家・天野健太郎さんが亡くなった――
訃報に接したのは2018年11月13日、午後5時半過ぎ。初報から2時間後ということになる。会社の仕事の息抜きにスマートフォンでフェイスブックを開いた瞬間、知り合いの中日翻訳家のタイムラインにあった「訃報」「天野健太郎」「亡」などの漢字が目に飛びつき、手がぴたりと止まった。
俄かには信じられなかった。ネットでいくら検索しても、特に取り上げるニュースが見当たらなかった。しかしツイッターの一部では既に情報が流れていた。頭が真っ白になり、何の冗談だ、誤報かいたずらか、とそればかり考えた(特に少し前にツイッターでとあるフェミニストの訃報詐称事件を見かけたばかりだからなおさら)。
暫くしてハッとなり、『自転車泥棒』の版元である文藝春秋社の知り合いの編集者にメールで確認した。それで事実だと知った。フェイスブックとツイッターでは、なんでそんな急に、信じられない、とのコメントが多かったが、それでも情報は確かに広がりつつあった。情報が広がることによって、事実が揺るがぬものとして定着していった。2018年11月12日、病気で、それも癌で亡くなり、享年47歳、とのことだった。
人間って、こんなにも急にいなくなるんだなって。情報を得て八時間経った今でも、いまだ実感を持てずにいる。
私は天野さんととりわけ仲が良かったわけでもなければ、親交があったわけでもない。台湾籍のぽっと出の日本語新人作家と、台湾文学の日本語翻訳家の関係であり、今年7月に天野さんが企画・司会を担当している台湾文化センターのイベント「台湾カルチャーミーティング」で1回講演をした、言うなればただそれだけのことである。最新刊『自転車泥棒』を除いて、彼の訳書すら読んだことがない。台湾文学を原書で読める私は、翻訳を介さなくてもよかったのだ。
初めて天野さんと会ったのは6月下旬、品川のルノアールで、「台湾カルチャーミーティング」講座の打ち合わせのためだった。初対面の印象は良いとは言えなかった。率直でぶっきら棒な口調を前にして、気の弱い私はなんとなく気後れした。「台湾にラブストーリーがない」「翻訳者は業者だ」などの言い切りも、ことに文学に関する事柄について常に結論を留保することを心がける私には鼻につくものだった。そのような印象は、彼が「台湾カルチャーミーティング」の司会をした時や、「翻訳フェスティバル」で出演をした時に表した、偉そうで、横柄とすら感じるちょっぴりでかい態度を見て、より一層強まった。
しかし手元に届いた最新刊『自転車泥棒』を読んで、私は敬服の念を禁じ得なかった。彼の訳文を読むのはそれが初めてだったが、とにかく日本語として研ぎ澄まされていた。原文の読解の正確さはもちろん(これは基本のように聞こえるが、実はそう簡単なことではない。手元にある何冊かの台湾文学の日本語訳書はパラパラめくっても、難なくいくつもの誤訳が見つかるものがほとんどである)、時おり村上春樹の文章を読んでいるのではないかという錯覚に陥る。原書にはどう考えても中国語や台湾語特有な概念や言い回し、ひいては台湾の民俗に関する描写が山ほどあり、日中両言語に精通していると自負している私は度々「これは翻訳不可能では」と頭を抱えたけれど、天野さんは悉く完璧なほどに日本語の、ひいては日本の文脈で適切な訳語を見つけ、置き換えていった。なるほど、こんな訳し方もありなのか、と何度も膝を叩いた(そんなローカライゼーションの是非はもちろん議論する余地はあるが、それはともかく)。また訳文からは、台湾ならではの歴史的脈絡や政治的事情に対する深い洞察が窺え、それはなまじ中高教育などで台湾史を齧っただけの私には到底叶わぬことだった。感動の極めつけは「訳者あとがき」だ。是非下のこのパラグラフを読んでみていただきたい。
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正直、今回のような翻訳の苦労をだれかと分かち合うのはなかなか難しい。ただ、圧倒的な「野生」たるテクストを、体で受け止めて理解し、それに見合う文章をまったく別の広大な言語世界から見つけて拾い出し、当てはめては交換・調整し、結果「ふぞろい」であってもできるだけ綺麗に磨きあげる。……読者のみなさんも、どう翻訳したかなどの講釈や言い訳は気にせず、ただこのおもしろい小説を存分に楽しんでいただければ、うれしい。幸い、そんなぶつかり稽古のような翻訳後の疲れは格別である。
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この文章を読んで、天野さんは本当に体当たりで、命を削って翻訳をしているのだとよく分かった。実際、『自転車泥棒』のような、作品内の時間が百年にも跨ぐ大作の翻訳は体当たりでなければとてもできない芸当だ。じっくり腰を据えて、一人の作家に、一つの文芸作品に向き合って、受け止めて、言語の移植に全てを捧げようとする、そんな体力と精神力、そして忍耐力は、観光ガイドや社内文書や製品紹介のような産業翻訳ばかり請け負っている私には到底想像がつかないものだ。それと同時に、そのでかい態度とぶっきら棒な物言いの裏に隠れているのは、台湾文学への真の情熱と、それをただただ日本に紹介したい、日本で広めたいという純粋な一途さであることに気付かされた。「台湾カルチャーミーティング」で彼は、講座に参加するのもいいが、まず作品を読むことが大事だ、という主旨のことを度々口にしたのも、その純粋さの現れだろうと今となっては思わずにはいられない。
「訳者あとがき」を読んで私は、11月17日に予定されている『自転車泥棒』著者・呉明益さんの講座(天野さんは司会を務める予定だった)でじっくり話を聞いてみたい、と心の中で決めた。訃報に接したのは、その3日後である。
前述のように、私は天野さんと知り合ってから半年も経っていない。彼の辞世を悼み、悲しむ資格が果たして自分にあるかどうかすら分からないくらい短い付き合いだった。他の方の追悼文を読んではじめて、彼は昔「肉付きが良かった」ことを知った。私の知る天野さんは、最初から痩せ細っていたのだ。
しかし知り合って間もないからこそ、残念無念でいっぱいだった。彼の過去に関する記憶がそう多くないからこそ、未来への期待が漲っていた。これからはどんな作品を翻訳するだろう、どんな作家を紹介してくれるだろう、どんな講座を企画して見せるだろう、日本における台湾文学の受容でどんな地平を拓いていくだろう、そんな地平で自分に何ができるだろうと、そんな未来に思いを馳せながらわくわくしていた。そんな矢先のことである。まるで始まったばかりの旅が、これから盛り上がろうとしている時に突如打ち切られたような気分で、目の前に広がっていた無限の可能性は有無を言わせぬ一線によって瞬時に閉じられてしまった。(もちろん、「始まったばかりの旅」というのはあくまでも私の視点で、彼にしてみれば既に何年間も努力してきて、かなり遠いところまで行っているのだと思う)
今、私の手元にはまだ『自転車泥棒』の書評の仕事が残っている。まだ1文字も書いていない。2週間以内に仕上げなければならないこの原稿は、引き受けた時にまさか故人の訳書に捧げる書評になるとは夢にも思わなかった。そう考えるととても虚ろな気持ちになり、残念で、無念で、仕方がない。
ところが一番無念なのは天野さん本人に違いない。2018年11月17日には呉明益さんの講座が控えていて、更に2019年には呉明益さんのもう1冊の小説『複眼人』の邦訳の仕事もあったという。どう考えても本人はこのタイミングで世を去るつもりはなかったはずだ。最後の時まで、もっともっと翻訳したいと彼は考えていたに違いない。どうすれば日本にとっての台湾を「美食」「九份」「夜市」の三点セットの集合以上のものにできるか、彼はきっと考えていたに違いない。
しかし果たして生死は人間の意思で決められるものではなかったのかもしれない。あるいは、天野さんは既に翻訳で命を削り過ぎたのかもしれない。「命を削る」というのはついにレトリックではなく、文字通りの現実になってしまったのだ。その現実は、台湾文学と日本文学、ひいては台湾と日本にとっての大きな損失になる。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。