自転車は時間の魔術(呉明益『自転車泥棒』書評)
二〇一五年に白水社より邦訳出版され、日本でも広く読まれた『歩道橋の魔術師』に次ぐ、台湾作家・呉明益(ごめいえき)氏の二冊目の邦訳となる。十の連作短編からなる前作とは異なり、本書は邦訳で四百ページを超え、作品内の時間が百年にわたる重厚な長編である。台湾文学金典奨受賞、中国時報開巻年度好書奨受賞、イギリスブッカー国際賞ノミネートなど、内外ともに高く評価されている。訳は前作に続き、故・天野健太郎氏である。
二十年前、中華商場が取り壊されたあと失踪した父とともに消えた「幸福」印の自転車が、二十年後に「ぼく」のもとに戻ってくる。二十年もの間にその自転車がどこで、誰に所有され、何をしていたのか、辿っていくうちに「ぼく」は一つまた一つの物語に関わり、巻き込まれていく。日本統治時代に受けた空襲と、庶民と動物達の離合集散の記憶、古物コレクターのライフストーリー、原住民青年の撮影家が兵役中に経験した異界、台湾の蝶の貼り絵の工芸史とそれに携わる女子工員の半生、戦時中にマレー半島で活躍していた旧日本軍の銀輪部隊、ビルマのジャングルで起こった過酷な戦い、戦後台湾の二・二八事件と白色テロ、そして中華商場の庶民の生活……大戦中に旧日本軍に使役され、後に中国軍の捕虜となり、戦後に国民党とともに台湾に渡ったアジアゾウ・林旺(リンワン)の記憶に象徴されるように、日本から中国へ統治権が移転され、いまだ「国家」と「地域」の狭間を彷徨っている台湾の激動の百年史が、一台の自転車の記憶を辿る旅に凝縮されているのである(ちなみにブッカー国際賞ノミネート時に主催側が勝手に著者の出身地表記を「中国・台湾」に改めたが、著者の抗議により「台湾」に修正された)。
様々な時代、様々な人の人生が、あるいは書簡、あるいは口述、あるいはカセットテープによって変幻自在に召喚され、接合され、融合されていくが、物理的な重さと違って本書は「重い」小説ではない。そこに描かれる戦争の歴史と苦難の記憶はどれも「重い」現実に違いないが、現実の重みに怯まずに直面し、かつ小説として軽やかな語り口を保ち、面白く読ませることができるのは、他ならぬ著者の才能と、丁寧な取材と、「時間への敬意」の賜物と言えるだろう。
自転車の記憶を追う中で主人公が発した「時間への敬意」という言葉が正に、本書の執筆動機と、一つのテーマに思えてならない。「時間への敬意」が根底にあるからこそ、歴史と記憶を扱う時の手つきはセンチメンタルなものに陥らず、かといって上滑りもしておらず、著者が経験した時代と経験し得なかった時代の情景が一つ一つ丁寧に描き出されている。そうした敬意は感情を持たないモノにも向けられている。大学時代の私にとって自転車というのは二千円以内で中古品が購入できる安価な乗り物に過ぎなかったが、著者の手にかかれば、それは戦争、宗主国と植民地の関係性、家族史ないしは個人史の投影になる。「アンティーク自転車を通して、昔の台湾の庶民の生活様式と工芸技術、ひいては文化的な権力関係を窺い知ることができる。例えば、昔の台湾の自転車は大抵日本の作りを真似していたが、それに象徴されるように、台湾の文化にはところどころ帝国日本の影が潜んでいる。」小説を執筆するうちに自らもアンティーク自転車のコレクターとなった著者は、講演でそう語った。
敬意と同じくらい、二十年の執筆活動や、撮影や絵画など他分野の活動で培ってきた観察力と表現力が、この壮大な作品をしっかり支えている。マレー半島とビルマのジャングルの過酷な環境や、空襲で生と死が隣り合う戦時下の台北城へ読者を誘う著者の言葉は、『歩道橋の魔術師』の中で時間や物理法則を捻じ曲げ、動物の生死すら自在に操る魔術師を想起させる。時間は決して歩みを止めないけれど、言葉ならそれを呼び戻し、現前させることができる。私は二〇〇〇年代に初めて台北に上京したため、一九九二年に取り壊された中華商場も、二〇〇三年に死去した林旺もまともに知らなかったが、それでも著者の時間の魔術に魅せられ、あの「哀悼さえ許されない時代」を振り返り、旅することができた。最終章を読む時にまるで自転車に乗っているように耳元を吹き抜けていた微風が、本を閉じた後も暫く続いてから静かに止んだ。しかしペダルを踏む足は止められない。どんな向かい風であろうと、どんなにペダルが重かろうと、明日に向かって一歩また一歩、漕ぎ続けるしかない。
残念なことに、本書の邦訳を手がけた天野健太郎氏は病で亡くなった。本書が発行されて数日後のことだった。著者によれば、天野氏は彼にとって「最高の翻訳者」だった。『歩道橋の魔術師』も本書も、小説に出てくる様々なディテールについて――自転車のパーツの名前から、中山堂のアーケードの向き、九九とアルファベットが貼ってあるテーブル付き折り畳み椅子の形、ひいては登場人物の禿げ度合いまで――、天野氏は適切な訳語を見つけるために事細かに著者に確認したらしい。本書出版前の確認メールに「ほんとはもう何回か読み返して自分で答えを見つけるべきですが、残念ながら時間が許さないんです」と天野氏が書いたそうだ。「時間が許さない」という言葉はまるで予言のようで、本書は氏の翻訳の遺作となった。過ぎ去った時間がそうであるように、亡くなった人は蘇らない。幸い、時間が言葉によって現前させられるように、氏もまた彼が紡いだ言葉の中で生きている。本書ならびに氏のその他の訳書が、日本で永く読まれることを切に願う。