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Vol.5 フィンガー5

背伸びをしたい子ども達

70年代に立て続けにミリオンセラーを記録した沖縄出身の兄弟バンドです。
人気が出ていた時期は楽器を演奏をすることはほぼなかったので、バンドというよりも「踊りながら歌うアイドルグループ」というイメージでした。
代表曲は「個人授業(73年)」、「恋のダイヤル6700(73年)」、「学園天国(74年)」。
いろいろな人がカバーしていますのでご存知の方も多いかもしれませんが、彼らはこの3曲で400万枚を売り上げています。
いわゆる一発屋というレベルではなく、ちょっとした社会現象でした。

73年のブレイク時のメンバーの年齢は9歳から18歳。若いというよりも子どもです。
フロントマンでありメインボーカルでありこのグループのアイコンといえる四男のアキラは当時12歳。
長髪に派手な衣装、変声期前のハイトーンでシャウトしながら踊りまくる生意気ざかりの小学生の「おとなへの背伸び」が多くのこどもたちの心をつかみました。
アキラのトレードマークであるサングラス(トンボメガネと呼んでいました)のパチもんを、1週間分の駄菓子を諦めて買うべきかどうか、当時の小学生は大いに悩んだものです。

そしてなにより、彼らのパフォーマンスは今見ても信じられないほどレベルが高かったのです。

アメリカだった沖縄、戦後という事実

彼らが上京した1969年、沖縄は米国占領下でした。
終戦から1972年までの27年間、沖縄の人たちは本土に来るためにパスポートが必要といういまでは信じられない状況にいました。
自動車は左ハンドル・右側通行、通貨は米ドルです。
多くの人々は駐留米軍に関わる仕事をしていて、生活にもアメリカの影響が色濃くありました。

フィンガー5もそういた環境の中、父親の経営する米兵むけのバーで小さな頃からアメリカの音楽に触れることになります。
アメリカのポップミュージックが本土よりずっと身近にあったわけです。
占領下のそのような環境は決して楽なものではないはずです。ただ音楽という限定された世界にあって、それが大きなアドバンテージになっていたことは否めないと思います。

上京から数年後、その高い実力に目をつけた音楽関係者にが「和製ジャクソンファイブ」として再出発させたことがきっかけになり大ブレイクします。
当時のアキラはマイケル・ジャクソンだったわけで、そのパフォーマンスもマイケルに勝るとも劣らないものでした。

1970年は第二次世界大戦が終わってからたったの25年後です。
60年代を経て70年代に日本の文化が育っていく過程において、戦争(しかも敗戦国としての)の影響が少なからずあったことは間違いありません。

ぼくが小学生のころは給食でお米のごはんがでることは稀で、主食はパンが中心でした。おかずがなんであれ主食はパン。
おでんにパン、クジラの竜田揚げにパン。今思えば結構きついです。
おとなになってから「あれは戦後、アメリカから小麦を大量に買わされたせいだ」と聞かされたときにはショックでした。

ほんのちょっと前にそんな時代があったのです。
本当に。


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