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萎えている自分はそこの上にいる

お釈迦様の手のひらの上の話は有名である。
孫悟空は、どんな場所にも行けると信じたが、結局釈迦の掌の中から出ることができなかった。
この話は、釈迦(仏陀)の掌の上では全ての事象が見透かされているため、逃れることができないという意味合いを持つ。
全ての出来事や状況が既に掌握されて、どんなに人が成果を上げたように見えても、仏の叡智の下なので驕ることはならないという教訓に使われている。


これは全くの誤解だと思っている。

何処までいっても、お釈迦様の手のひらの上にいるから安心していいのである。
人は、成功しても失敗してもいい、
褒められないような事ばかりで罪悪感あることがあってもいい、
うまくいって調子に乗っても、正しい振る舞いができなく悲しんでも、何処までも宇宙に守られている。
宇宙に守られる事から逃れることができないのが、釈迦の掌の上の話であるはず。


これは仏教の話ではない。
釈迦とは比喩で、宇宙エネルギーのことである。
仏界の比喩から様々なことがわかる。
仏には如来や菩薩のように、慈悲あふれる存在や、悟りの知恵がある存在だけではない。
悪魔のように見える修羅や明王や天部の神々など様々に存在し、荒くれも破壊性癖も欲まみれもたくさんいる。
しかしそれら全て仏の化身、仏が衆生を救済するために様々な形態の姿でしかない

つまり、宇宙の真理の波動における化身、
それは、荒ぶる迷えるあなたも高次元の化身である。


釈迦の掌の上、つまり宇宙の波動の中に人は存在する
どんなに腐った気分の自分でも、全て裏目に出て萎えている自分でも、ポジティブになろうとするほどネガティブになる自分でも、
全て高い周波数を持った自分の化身でしかない。

低次元の自分でウロウロしてても、高次元の自分の一時的な化身でしかない。
どんなにあがいてもどんなに絶望しても、その事実から逃れられないのが、「釈迦の掌の上」なのであると思ってる。


西遊記の孫悟空が、釈迦の掌の上にいる事実に気づいて自分の無力を知るだけか、自分が釈迦の化身であると気づくか、ただの時間の問題。
今気づくか、来世で気づくか、それだけの違いでしかないくらい、釈迦の掌の上であろう。


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