芸術家は時代のどこにいたのか(前編)
*本記事は2023年6月に某所で行った市民講座の原稿です。
芸術家は時代のどこにいたのか? こう問うことは芸術家を私たちの視線から引き離すことでもあり、同時に、不思議な親近感をもたらすことにもなり得ます。かれらの生きた時代は私たちが今日生きているものとは異なりますし、歴史にはこうしたそれぞれの時代を分かつ大きな出来事が幾つも記録されているように思われます。しかし、人間を取り巻く様々な要因や矛盾、思考上の問題といったものは、こうした歴史の区分によらず、はるか昔から私たちに引き継がれているようです。たとえば、私たちを他の動物と区別する者は何か、であるとか、生に始まり死に終わる人生の外側には何があるのか、といった事柄は、場所や時代や出来事によって様々な枠組みを与えられたり、そうした潮流に組み入れられることはあっても、決まった答えを押し付けられるということはなく、誰しもがそれについて全く個人的に考えを巡らせることが出来ます。ただし、そうした自由な考えを表明することが規制されるということはあります。社会が人々の生き方や暮らし方を強固に規定している場合、それを逸脱するような表現は非常に難しくなります。そのような環境の中で、独自の立場を守り、社会的な通念を真っ向から打破するような芸術があれば、それはまさしく冒険的な試みであると言えるでしょう。ですがここでは、ひとまず、そうした社会の強固さが一段と緩くなっていた時代、18世紀の芸術からみていくことにしましょう。ここで芸術と呼ぶものは必ずしも特定の作品を指している訳ではなく、ある社会に対して影響を与えたり、その痕跡が現代にまで伝わっていたりする様々な行為という風に捉えてください。そうした行為は、定められたものの見方を否定し、その外部に新たなものを見出そうとする点で少なからず冒険的なものです。冒険についてここで詳しく検討する余裕はないのですが、一つだけ共有しておきたいことがあります。それは、冒険は男性的なものである、と見做されて来た歴史があるということです。もちろん、性格的な事柄について男性的であるとか女性的であるとかいうことは明確に間違いです。ただ、これから男性芸術家の作品や事例を多くみていくので、こういった図式がある、あったということは念頭に置いておいてください。
さて、18世紀に社会的な強固さが緩くなったというのは、72年間続いたルイ14世の治世が、1715年に終わりを迎えたことに起因します。宗教的な秩序と厳格な規則によって芸術も暮らしも縛り付けられていた雰囲気が、王の死によって一気に綻びを生じ、崩れ出します。それに伴って始まるルイ15世の治世は、1774年に終わりを迎えるまで、大きな戦乱もなく穏やかな時代でした。そんな18世紀の特徴的な登場人物がアヴァンチュリエ aventurier とフィロゾフ philosophe です。アヴァンチュリエは、その出自が定かでなかったり、怪しい経歴にまみれた人物でありながらも、宮廷やサロンに出入りをして少なからぬ影響を与えた人たちのことを指します。サロンというのは17世紀に始まった文化で、貴族の女性が邸宅を解放し、友人や文学者などを招いて会話を楽しむ場所です。当時は文学作品を刊行してもそれを読めるのは限られた人々であったこともあり、サロンで作品を朗読し、主人や他の客人たちの意見を聞いてからそれを本のかたちにするというのが主流であったほか、サロンでの会話が直接作品の素材になるということも多くありました。話題は文学のことばかりでなく、特に18世紀には、政治や社会に関する事柄も闊達に話し合われました。サロンは上品で洗練された場でなくてはならないという「趣味」は、17世紀から依然として存在していたので、激しい議論が巻き起こるということはありません。しかし、「趣味」があるからこそ、それに挑戦し、揺るがすような刺激的な要素が求められ、また許されたのがこの時代でした。アヴァンチュリエはその名(冒険者を意味する)の通り、中世の騎士たちや、海賊と商人を兼ねたような人々の後継者と言える存在ですが、かれらは実際的な冒険というよりも、社交界における挑戦的で軽妙な立ち回りによって特徴づけられます。自らの機転や才覚を武器に、言葉の行き交う場所を振る舞いの一つ一つによって冒険したのがアヴァンチュリエなのです。古代からの秘教的伝統を取り入れ、体系づけられた神秘思想を広めたサン=マルタンのような人たちの影響も大変面白いのですが、もっとも語られるのはヴェネチア出身のカサノヴァという人物です。ヨーロッパ各地を渡り歩いて各地で醜聞を立て、ヴェネチアでは脱出不可能と言われたピオンビ監獄を脱出したエピソードもあるカサノヴァは、広範な知識を持った博学多才な人物でもあり、サロンで活躍した後、フランス語で『回想録』を書きました。
怪しい魅力を放ちながら非常に個性的な役割を演じたアヴァンチュリエたちとは少し異なり、社会の仕組みや人間そのものについて議論し、思想を展開させたのがフィロゾフ、つまり哲学者たちです。この時代の哲学の底流には感覚論という考え方があります。これはまさしく人間という存在を問いの対象とするもので、人間というものは外部からの刺激を感じ取ることで成り立っているのだと考えます。たとえばエルヴェシウスは、物事の判断は様々な刺激を感覚するときに生じる快・不快を知性が計算することによってなされていると考えます。判断すら、外界からの刺激とそれに対する反応という図式によって説明されてしまうのです。エルヴェシウスの説は感覚論の中でもある意味で徹底したもので、反論も多くあったのですが、この快と不快の原則は功利主義という考え方に影響を与えます。これは主に社会制度を対象にした学問の立場ですが、見方を変えれば、人間は自分の快楽のために生きる存在ということにもなるのです。
代表的なフィロゾフとして、ルソーとディドロを取り上げましょう。ルソーは人間の原初に「自然状態」というものを考えます。他の多くのフィロゾフにも通用するキーワードは「自然の善性」です。原初の状態である自然は絶対的に善なのです。ルソーは『人間不平等起源論』や『社会契約論』で、この善であった「自然状態」から、段階的に堕落していく存在として人間を捉えます。人間には「自由」と「自己完成能力 perfectibilité」という、他の動物とは異なる特質があります。状況に応じて好きな行動を選択する自由と、状況そのものを改変していく革新の能力です。こうした特質から、人間はものを所有したり、法を生み出したりして、文明を形成します。しかしそれは、ルソーにとっては人間の堕落に他ならないのです。一方で、18世紀の末期に活躍した次世代のフィロゾフであるコンドルセは、ルソーの言う「自己完成能力」をポジティヴに捉え、その利用を人間の進歩に結び付けます。ルソーとコンドルセで価値づけは全く逆であるにせよ、「自己完成能力」が人間の歩みにとって重要な概念であることは認めて良いでしょう。さて、ルソーはこのような「堕落」の過程を論じるのですが、その中で自然の豊かな魅力を生き生きとした文章力で鮮やかに描いていきます。それは社会の規則やしがらみを脱し、個人の人間の視点から眺められた自然です。つまり、文明社会の成立を論じながら、その外部である自然を全く新たな場所として言葉に写し取ったのです。こうしてルソーが示した個人としての視線と自然の瑞々しさは、文学として、後の世代に熱烈に受容されることになります。
ディドロは、ダランベールと共に『百科全書』という膨大な内容の百科事典を編纂することになったフィロゾフです。最終的に本文17巻、図版11巻という分量になる『百科全書』の執筆は分野ごとに様々な知識人に託され、その中にはルソーもいました。しかしルソーとディドロは後に決別することになり、ダランベールも『百科全書』を離れます。こうして取り残されたディドロは、ライフワークとして懸命にこの辞典と関わり合いながら、哲学を論じた著作はもちろん、小説や戯曲、美術批評など、様々な執筆を行います。ですがその殆どの著作は生前には刊行されず、身内の間で読まれるに留まるものでした。ディドロの作品には無神論を基本としたその思想が強く表れていますが、当時フィロゾフがこのような思想を公開することは焚書や追放などの処罰を受ける危険と隣り合わせでした。逆に言えば、こうした検閲を免れる場として、サロンやフィロゾフ同士の集まりが機能していたのです。
ところで、先にみたアヴァンチュリエたちは各々特殊な背景を持ちながら社交界での活動を基本としていましたが、この時代にフランスを出て旅をするどころか、世界一周を成し遂げた人物がいます。海軍士官ブーガンヴィルです。1766年から二年四か月をかけて世界を回ったブーガンヴィルは、71年に『世界周航記』と呼ばれる航海記を刊行しました。二隻の軍艦で行われた航海ですが、この船にはジャンヌ・バレという人物が乗っていました。博物学者コメルソンの助手であったバレは女性でした。しかし、当時女性は船に乗ることを公的に禁じられていたため、バレは男装してこの航海に参加することになったのです。バレは帰路のモーリシャス島で下船をしましたが、後にフランスへ帰り、世界で初めて世界周航を成し遂げた女性となりました。ブーガンヴィルは海軍士官という職にありましたが、パリにいるときは社交界に顔を出し、色々な「趣味」を摂取しつつ、多様な会話を楽しむアヴァンチュリエ的な人物であったようです。
さて、ブーガンヴィルの航海の体験はこのように会話や記録によって瞬く間に共有され、多くの人の関心を惹きました。一行は途中で寄港したタヒチ島からアオトゥルーという現地の貴族の人物を伴って帰りますが、アオトゥルーはブーガンヴィルに連れられて様々な人と交流し、国王ルイ15世に対面もしています。アオトゥルーとパリの人々との間でどの程度の会話があり、彼にどのような視線が投げかけられたのかということについては、慎重な調査をしなくてはなりませんが、ブーガンヴィルなどと共に劇場へ赴き、観劇をしたりもしていたという事実は興味深いです。このとき実際にアオトゥルーと対面していたディドロは、ブーガンヴィルの『周航記』には公開されていない「補遺」の部分があったという設定で、『ブーガンヴィル航海記補遺』という作品を執筆します。AとBという二人の人物によるこの「補遺」についての会話と「補遺」そのものなどの文章が交互に設置される構造になっており、ディドロの思想がところどころに表出しています。それはつまり西洋文明における宗教的な規律や法律に相当するものが存在せず、人間の自然的な理を共同生活の核とするタヒチの社会を理想的なものと見做し、そうした社会と対比させることによって西洋文明の矛盾や欺瞞を露わにしようとするものです。こうした目的があるので、タヒチの社会はある種のフィクションとして描かれており、タヒチの人々の実際の生活がそのように単純なものであったという訳ではありません。この作品が書かれた時点で、ディドロとルソーはとっくに決別をしていますが、大まかな図式としては、ルソー的な仕方の文明批判・自然賛美が見出せると言って良いでしょう。自然は善であり、文明とはその善性を損なっていく堕落の形式に他ならないというのです。先にこの作品の中に示されているルソーと異なる特徴を挙げておくと、それはディドロの複数的な視点ということになるかと思います。ルソーは個人としての視点から自然を叙述し、そこから文明の劣悪さを論じますが、ディドロの場合は同時代的なそれぞれの立場、その自立性というものに気を配ります。このことは、島を出るブーガンヴィル一行の出立に際してタヒチの首長の一人が行った怒りに溢れる演説として、ディドロが語らせている中の次のような言葉によく表れています。
つまり、タヒチと西洋の社会は全くの別物であって、しかし同じ時代に別の場所で共存している自立した主体なのです。こうした見方を基盤に、一方を理想的な社会、一方を矛盾に満ちた社会として対比させることによってディドロは思想を展開させていきますが、それは自然を絶対的で普遍的な根拠とすることによってそこから離れた人の生き方を徹底的に責め立てるグロテスクなもので、同時的な複数の相異なる存在を肯定する思想ではありません。このことはたとえば次の箇所に示されています。オルーという現地の人物は、フランスから来た司祭の考え方や人格形成に理解を示さず、自然に従って生活を営む自分たちにとって当然である論理にこの司祭を服従させようとするのです。
ここにはディドロ自身の矛盾があると私は思います。タヒチという同時代の別の場所を、そこにはそこの論理があり、他の何かに支配されるべきではない独立した領域であるとして認める一方で、様々な信念や経験によって形成された他者の生き方については、それぞれ別個のものであると肯定するのではなく、自然との一致如何によって是非を決定する。もちろん、ここで行った読み方は登場人物の内面に特にフォーカスを当てるもので、少し特殊な方法ではあるので、ディドロなりの思想の一貫性は確かにあるとも言えるのですが、そこにはこうした批判を向けることが出来るということです。(ですから、『ブーガンヴィル航海記補遺』を読むのには注意が必要ですし、おすすめは全くしません。)ともあれ、ディドロは多様な事象を相対的に捉える柔軟な視点を持っていた思想家であることは確かで、具体的な個々の存在に根差したこのような思考法は、『百科全書』がそのライフワークであったことと密接に結び付いています。『百科全書』の試みは人類単位の冒険でもあり、ここに諸分野の知識が融合し、多様性と可能性の豊穣なきらめきをみせるのです。ディドロの冒険、それは人類を背後に連ねた冒険であり、人類の一部として、様々な分野においてその先端を拡張してゆく作業でした。このように、18世紀はアヴァンチュリエとフィロゾフのそれぞれ個性的な「冒険」の時代でした。しかしかれらの活躍の現場には、不可欠な存在としてサロンの女性たちがいたのです。このことを無視するべきではないでしょう。
さて、1774年にルイ16世が即位した頃、フランスの国家財政は危機的な状況に陥っており、こうした事情を背景とする宮廷と貴族の対立を契機に、時代は革命へと動いていきます。この対立から始まった混乱はすぐに結束した民衆の反乱となり、1789年にはバスティーユ牢獄が襲撃され、本格的に革命が開始されます。国王は93年に処刑され、ジャコバン派というグループが独裁を敷いた恐怖政治の時期、様々な立場に揺れて安定を欠いた総裁政府の時期などを経て、ナポレオンの時代となります。こうした混乱の最中にも、サロンは存続しました。政治的な立場には幾つかの明確な指標があり、政治に関わろうとすれば人々はこうした明確な立場に身を置く必要があったのですが、サロンという言葉の空間では、こうした相異なる思想や目的が、政治の場の論争とは違うかたちで混ざり合ったのです。この不思議な時代のサロンの主人を代表するのがスタール夫人です。ナポレオンの支配下でサロンのこうした性格は急速に薄まっていくことになりますし、政治当局から弾圧や妨害を受ける場合も多くありました。そのためスタールはスイス・レマン湖畔のコペという土地に所有していた城館とパリを行き来するようなかたちで、ナポレオンの圧力に屈することをうまくかわしつつ、サロンの主人として言論の喚起や思想の醸成を行います。スタールの思想的立場に大きな影響を与えたと言えるのが、先にみたルソーの「自己完成能力」です。ルソーはこの人間固有の能力を文明への堕落の原動力と考え、コンドルセは逆に、人間の進歩の過程をそこに見出しました。スタールはというと、著作『文学論』の中で、これを各地で文化や文明が発展していく運動の基礎と位置づけました。ポジティヴな捉え方ですが、人類単位の進歩ではなく、様々に異なる特徴を帯びた個別の文化の形成をこの概念で説明しようとするのです。同時代の多様性に気を配るという意味では、いわばディドロ的な見方です。多様性の立場から、フランスでナポレオンが推し進めていた一元的な政策を批判する性格を持ったこの著作の刊行は、危険な行為である一方で、他国の魅力ある文化の様相を改めてフランスに知らしめるという役割を果たしました。
1803年、ナポレオンの弾圧によりパリに入ることを禁じられたスタールは、次いで国外追放を受けると、念願の地であったドイツへと旅立ちました。ゲーテやシラーといった文学者たちと交流をしつつ知見を広めたほか、スタールはここで『ラ・サールのニンフ』というオペラを観劇します。これは少し後にフーケという作家が『ウンディーネ』という小説の題材にすることにもなるドイツの伝承を基にした作品で、妖精のような存在である水の精が、とある騎士と恋に落ちますが、結局この騎士は水の精を裏切って、人間の女性と結婚するという筋になっています。フーケの『ウンディーネ』を経由しつつ、この伝承はフランスでも広く知られるようになり、後に多くの作家が自分の作品に展開させています。スタールもまた、オペラで知ったこの物語に大きな興味を持ちます。スイスに帰国後、今度はイタリアへと旅をしますが、このイタリアでの経験を、水の精の伝承の筋を取り入れて小説にしたのが『コリンヌまたはイタリア』という作品です。主人公のコリンヌは天才的な詩人で、芸術を愛する雰囲気に満たされた地ローマで絶大な評価を獲得しています。はじめ明かされないその謎の出自は、実はイギリス人とイタリア人の間に生まれた娘であるというものです。イギリスからやって来たオズワルドはコリンヌと親しくなり、恋愛関係になりますが、その父親はイギリスにいた頃のコリンヌと会ったことがあり、息子の結婚相手としてコリンヌは相応しくない、異母姉妹であり慎ましい性格のルシルこそ最適である、と決めていたことを知ります。そしてオズワルドは実際に、コリンヌではなくルシルと結ばれることになるのです。さて、この小説にはスタールの鋭い皮肉が籠められています。イギリスやナポレオン帝政下のフランスでは、女性を家庭の内部に縛り付け、男性たちの社会的活動とはっきり区別する価値観が支配的でした。こうしたイギリスの社会に嫌気が差したコリンヌは国を出て、芸術的な活動のため、大らかで熱気を感じられる地であるイタリアに居場所を移しました。しかしこのとき、元の姓を名乗ることを禁じられてしまうのです。姓と出自を失ったコリンヌは、謎の詩人として異郷で一人暮らすことになりました。その出自がオズワルドとの恋愛で得られた希望を奪う結末は、ドイツ伝承の型を借りた悲劇ではありますが、フランスやイギリスの社会の仕組みを射抜く激しい批判にもなっています。社会に紐づけられた要素である姓を失ったコリンヌが、本来人間とは別の世界に住む存在の水の精と重ね合わされているところは注目すべき点です。ここでは、人間とは全く別の、自然の神秘が息づく環境が、イタリアという国として描かれているのです。ここでは独特の熱気が辺りを包み、人々を養います。社会通念よりも、芸術が勝利するのです。こうした熱気を、スタールは独特の「精神の昂揚(アントゥージアスム) enthousiasme」という語で表現します。この言葉自体はスタールのものですが、自分の内面が激しく活動する感覚は同時代の芸術家たちに多くみられ、19世紀前半のロマン主義と呼ばれる潮流の最も大きな特徴をなします。スタールはロマン主義の先駆者ですが、生涯の敵であったナポレオンもまた比類のない冒険者であり、このロマン主義にもう一方の側から大きな影響を与えているということは興味深い事実です。ただ、こうした高揚感を外国の土地に結び付け、美や文化が各地で性質を異にする相対的なものであると示したことは紛れもないスタールの功績であると言えるでしょう。
スタールがドイツでの経験を基に書いた『ドイツ論』に影響を受け、ドイツ愛好者(ゲルマニスト)となったのがネルヴァルという詩人です。父親はナポレオン軍の軍医でしたが、ネルヴァルが生まれて間もない頃、ドイツへの遠征の際に同行した母親はその地で病没してしまいます。そのため、ネルヴァルにとってドイツは会った記憶のない母が命を落とした場所という意味もありました。大叔父の家に預けられたネルヴァルは、その蔵書によって神秘主義にも感化されます。父の退役に伴ってパリに戻ると、ドイツ文学に親しむ生活を送り、19歳でゲーテの『ファウスト』第一部を翻訳しています。『ファウスト』は二部からなる戯曲ですが、スタールが紹介したとき、まだその第二部は書かれていませんでした。1831年に完結したこの作品の最後の台詞は次のようなものです。
ここに出て来る「永遠の女性」という言葉は、より正確には「永遠の女性的なるもの」という意味合いのものです。さて、ネルヴァルは第一部翻訳の12年後、1840年に部分訳というかたちでこの『ファウスト』第二部を翻訳・刊行していますが、ネルヴァルの文学や人生において、この「永遠の女性」という観念は何より重要な位置を占めています。33年頃からネルヴァルはジェニー・コロンという女優に強い愛情を抱き初め、関わりを持つようになります。しかしジェニーはネルヴァルとの関係を発展させずに、別の男性と結婚することを選びます。ジェニーとはその後自分の関わった舞台の現場で一度会うだけで、それから先は顔を合わせていません。このジェニーに対する感情とその経過が元で、ネルヴァルは精神錯乱に陥ります。そうした中で、「永遠の女性」というイメージが固められていくのです。それは絶対的な救済と結び付いたもの、個人としての人格を超越したものです。そして、この概念が正確には「永遠の女性的なるもの」であることからも分かるように、ここでは女性性がイメージの中核をなしています。天上世界から訪れる救済は、女性性と直接に重なり合っているのです。こうした観念の源泉は現実の女性に対する幻想と理想化ですが、ネルヴァルにとって、「永遠の女性」には、ジェニーを始めとする実際に交流のあった人たちだけでなく、会った記憶のない母に向けられた想像も含まれており、その実態は複合的なものでした。
1842年、ネルヴァルはジェニーの死を知ります。繰り返す精神錯乱は、ここで一つの突破点を踏んでしまいます。このような危険を宿しながら、この年、ネルヴァルは以前から憧れていたオリエント(地中海の東部や南部)へと旅立ちます。この大旅行中に出逢ったのが、エジプト神話の女神イシスです。ネルヴァルの中で、以前から抱いていた「永遠の女性」のイメージと異国の女神が結び付きます。錯乱の恐怖と共に生き、夢を「第二の人生」とするこうした日々は最晩年に『オーレリア』という著作として結実しますが、その中には次のような場面があります。
このように、異国の神話や夢の中を旅するネルヴァルの冒険は、最終的にただ一人の天上の女神の存在へと向かっていくものでした。救済の象徴は「一」なる存在なのです。ネルヴァルの特徴は様々な神話や宗教を混ぜ合わせてしまう宗教混淆(サンクレティスム syncrétisme)にあると言えますが、霊的な世界の至高の存在を「一」なるものとして捉えることは錬金術などの秘教的伝統と形式上一致します。しかし、詩の世界で、19世紀の後半から発展をみせた「純粋詩」と呼ばれるものの流れは、「一」へと向かう方向とは別の可能性を示しているように思います。「純粋詩」という言葉が独特な詩の用語として用いられるようになるのはもっと後のことですが、その原点はボードレールという詩人にあります。