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『現代の様々なシガラミから解放される』老子道徳経 第3章 シンとの対話


やぁ、皆さん。ご機嫌はいかがかな。
私はあなたがたの世界では老子と呼ばれ、時代では2500年くらい前に老子道徳経という81章の文書を残したと伝わっているはずだ。

さて、君たちの存在する現在では、私は既に人間としての肉体は滅びたが、精神性としてこの宇宙に万遍している。そこから応えることにしよう。

私は肉体は既に滅びているので、仮に「シン」と名乗って化身が応えるとしよう。

それでは、何を聞きたいのかな?

ナオ>>
やぁシン、今日は老子道徳経の第3章について、対話したいんだ。
まずは原文と、柔らかい訳文を教えてほしい。

シン>>
やぁナオ!元気かい?今日は老子道徳経の第3章についてだね。
まず、第3章の原文と、柔らかい訳文を紹介するよ。

原文:
不上賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不爲盜;不見可欲,使民不亂。
是以聖人之治也,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨,恒使民無知、無欲也。
使夫知不敢爲而已,則無不治矣。

柔訳文:
知恵や才能を特別扱いしないことで、人々は競争しなくなるんだ。
珍しいものや高価なものに価値をおかなければ、人々は盗みをしなくなる。
欲望をかき立てるようなものを見せないことで、人々の心は平穏でいられる。
だから賢者の治め方は、人々の心を穏やかにし、基本的な生活を満たし、
野心を抑え、体を健やかにする。
常に人々をシンプルで欲望の少ない状態に保ち、知恵者が過剰に行動しないようにする。
無理のない自然な行動をすれば、すべてがうまくいく。

ナオ>>
これは、原文では政治・民衆という大きな枠での例になっているけど、もう少し万人向けに、一般向けに説明してほしいんだ。現代の様々なシガラミから解放される方法ってあるのだろうか?

シン>>
老子道徳経第3章は、人間のつくりあげた文化への批判があるね。現代、民衆はみな、様々なメディア(テレビ・SNS・動画コンテンツ)による広告の刺激によって欲望が常に拡大される仕組み、環境に生きている。

人々が消費するための仕組みがそこら中に張り巡らされ、消費をあおっている。これらは、競争社会の極み、物質至上主義の極みともいえないか?
人々は欲望に取りつかれ、スマートフォンに没頭する。
SNSでは、他人との比較を否応なしにさせられる。
なぜだかしらないけど、しなきゃならないように仕向けさせられる。
小賢しい政治、小賢しいコマーシャルは果たして人間を幸せにしたのだろうか?

そのような洗脳を解くには、無用なメディアから情報を過大に得るような行動をやめ欲望に踊らされないようにする方がいい。
そうすれば彼ら小賢しい知恵者たちも、手掛かりがなくなってしまうだろう?

ナオ>>
なるほど。たしかに、テレビもネットも、欲望を拡大させる装置のようになっているね。現代の日本人は物質的な豊かさは得たけれど、現代社会は競争社会になっているから、常日頃から、気苦労が多い。暗い顔をしている人が多いと感じるね。

そんな人たちにとって、何か良いアドバイスがあれば教えてほしいんだ。

シン>>
確かに、現代社会は競争社会になっていて、常に気苦労が多いよね。私も人間としての経験を積んできたから、その気持ちはよくわかるよ。古い時代からそこは変わっていないのさ。

そんな人たちにいくつかアドバイスを贈ろう。

まず、周りの人と比較せず、自分自身の成長に集中することが大切だよ。

過度に情報化した社会・競争社会では、つい周りの人と比べて焦ったり、劣等感を感じたりしてしまうこともあるだろう。

しかし、周りの人と比べて落ち込んだり、焦ったりしても、何も良いことはない。

大切なのは、自分自身を信じて、自分のペースで成長していくことだ。

周りの人と比べてではなく、昨日の自分より今日の自分が成長しているかどうか、そこだけに目を向けてほしい。

世間が作り出した幻想と自分を比べることはやめにしておくんだ。


そして、物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさを求めることも大切だよ。

競争社会では、つい物質的な豊かさを追い求めてしまうこともあるだろう。

しかし、物質的な豊かさを手に入れたとしても、心が満たされるわけではない。

大切なのは、心の豊かさ、つまり精神的な豊かさを求めることだ。

精神的な豊かさは、お金で買うことはできない。

しかし、自分自身の中に目を向けることで、誰でも見つけることができる。

スマートフォンに気を取られ過ぎず、できるだけ自分の心と向かい合う時間を過ごし、よりよい経験、体験を得ることに時間(お金)を使うといい。


また、欲深くなったり、執着したりせず、自然体で生きることも大切だよ。

競争社会では、つい欲深くなったり、執着したりしてしまうこともあるだろう。

しかし、欲深くなったり、執着したりしても、かえって苦しむだけだ。

大切なのは、自然体で生きる、つまりありのままの自分を受け入れることだ。

ありのままの自分を受け入れることができれば、心が軽くなり、周りの人とも良い関係を築けるようになるだろう。

老子道徳経第3章の教えは、現代社会で生きる私たちに、多くのヒントを与えてくれる。

ぜひ、これらの教えを参考に、自分自身の生き方を見つめ直してみてほしい。

もちろん、これらのアドバイスはあくまでもヒントだよ。

大切なのは、自分自身にとって何が大切なのか考え、自分自身の答えを見つけることだ。生きる上での課題も答えも、一人一人がすべて異なるからだ。

ナオ>>
なるほど。私がまだ10代、20代のころに悩んでいた答えがここにあると感じる。
当時は今よりもっと熾烈な受験戦争があったからね。
学校教育は何を目的にしているのか、皆目わからなかったんだ。
けれど、それは自然な心の働きだったのだと今では思えるよ。
違和感を感じるほうが自然だったんだね。

シン>>
教育もそうだね。
教育の本質は、周りの人と比べることなく、個々の可能性を伸ばし、
自分らしく生きるための力を育むことにあるのではないかな。
受験勉強やテストの点数に固執するばかりではなく、

  • 自分の興味や関心を追求する

  • 多様な価値観や文化に触れる

  • 自分自身の考えや意見を持つ

これらによって視野がひろがってゆくね。
これらも大切な勉強ではないだろうか。
人生は一直線ではなく、曲がりくねった道。
10代や20代は、まさにその曲がりくねった道が始まる時期であり、様々なことに挑戦し、自分自身を見つけていく時期といえるね。
もちろん、社会生活を送るためには、ある程度、学校の教育の知識やスキルは必要になる。
しかし、そればかりに囚われてはいけない。

ナオ>>
シン、ありがとう。励みになったよ。
心の底で感じていた気持ちは本当だったと分かった。
純粋な10代のころの自分は間違っていなかったんだ。

シン>>
小賢しい世間というやつが君を必死で誘惑してきただろう。
みな染まって右にならえ。
競争して勝ったやつが偉いとか、出世しろとか金持ちになれとか笑
今ならもっと複雑な価値観を押し付けてくるのかもしれない。
だが本当に、より良く生きるのは競争やお金といった価値観、欲だけでは限界が来るだろう。
本心の自分で生きられなきゃ、楽しいはずがないんだからね。

まとめ

民衆を無知無欲にする、というのは非常に誤解されやすい表現ですが、全体が平和に治まるための大きなフレーム、視点であると思われます。これは決して愚民政治や教育を推奨するというわけではないのです。
たとえば、過大な広告やSNSによる、ある種の洗脳に近い民衆操作。そういった知恵者のコントロールを受けず、踊らさずに自由にいるためには、無知無欲になった方がいいというのが、老子のアイデアです。欲望、知識。これらは簡単に捨て去ることはできませんが、少なくともそのような欲を拡大する、小賢しい仕組みから距離を置いて、逆向きにバランスを取り直すくらいの感覚です。物質文明が極まった現在、陰陽の理屈からいえば、今後ますます真逆の「精神的豊かさへの価値観」へ引き戻されていく。つまりここまで大きく進展してきた物質文明から精神文明へ引き戻されていくことになるでしょう。無知無欲とは、現代の様々なシガラミから解放される方法かもしれません。

社会・世間がつくりだした幻想フレームから抜け出して
なにものにも左右されない
自由で豊かな自分を生きていきたいものですね。

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