見出し画像

『無為自然への6徳目』老子道徳経 第10章 シンとの対話


はじめに

みなさま、こんにちは。
今日は、シンと老子道徳経第10章について対話をしてみたいと思います。
10章は、一言で言えば、無為自然に生きるコツというのか、そのための徳目とはどんな内容なの?
その問と答えが6つ出てきます。

老子道徳経 第10章 シンとの対話

ナオ>>
やぁ、シン。今日は老子道徳経の第10章について、対話していきたいんだ。

シン>>
やぁ、ナオ。どうだい元気だったかな?
老子道徳経の第10章か。 それは私にとっても大変興味深い話題だな。
無為自然であるための6徳目を説明している箇所だね。
先ずは、原文をみてみようか。

原文
載營魄抱一,能無離乎
專氣致柔,能如嬰兒乎
滌除玄覽,能無疵乎
愛民治國,能無為乎
天門開闔,能為雌乎
明白四達,能無知乎
生之畜之,生而不有
為而不恃,長而不宰
是謂玄德。

分かりやすく6つに分けてみよう。

無為自然になるための6徳目

  1. 「魂と身体を一つに清浄に保ち続けられるだろうか?」
    精神と肉体の調和を維持すること。現代の生活は、ストレスや外要因から心身が汚れやすい。陰陽バランスとりながら、清い心身を保ちたいね。それはそのまま、良い心を維持することにつながるからね。

  2. 「赤ん坊のように無垢で柔軟にいられるだろうか?」
    赤ん坊のような純粋さと柔軟さを目指すことで、より自然体の生き方ができる。現代人は様々な縛りや不自由な状況に生きているね。そのような、状況にあっても赤ん坊のように無知無欲なままでいられるように心がける。頭に集中しがちな氣を、腹(丹田)に集中させてみよう。

  3. 「先入観や偏見といった固定概念を取り除くことができるだろうか?」
    深遠で広い見識や視野、それらを保ちながらも、心の純粋さを維持することができるだろうか?
    大人になっても、子供の頃のような純粋さを心に宿すなんて、なんだか幸せな感じがしないかい?
    これは、日本の禅僧であった良寛さんが良いモデルだよね。彼は子どもと遊ぶことで先入観、偏見のない自分を維持したのだろうね。彼は老荘的思想家であったと思うよ。

  4. 「自然の流れに任せ、無為でいることができるだろうか?」
    組織を治めるような立場にあっても、無為でいられるかどうかが問われるんだ。影で受け止め、自分の手柄にはしない。
    立場のある人って利害と打算、計算、数字ばかりに、うるさく口出しすることが多いね!それはまぁ、自己保身というバランスもあるだろう。
    だが、政治的な操作や計算に頼らない、利害や打算のない純粋なリーダーシップのあり方の方が本質であり、大事だといっているんだね。

  5. 「常に柔和で受け身の態度でいられるだろうか?」
    自然の法則に従いながら、柔和で受け身の態度を保つことの重要性を説いている。
    「天門」は宇宙や自然の摂理を象徴し、その摂理に沿って行動することだね。

  6. 「たくさんの知識をもっていても、無為自然でいられるだろうか?」
    最後の問いかけは、物事を深く洞察し、真理を見抜くことができながら、同時に柔軟に、まるで無知であるかのような生き方の重要性を説いている。無知の知に近いかもしれないね。
    知識を持ちながらも、それに囚われず、控えめ、謙虚。自然体でいられることの重要性を言っている。「無為」とは、何もせずにいることではなく、無理に行動を起こさず、自然の流れに身を任せる態度のこと。作為的なコントロールはしないのだ。

ナオ>>
なかなかに難しい・・・でも心でわかる感じがする。
老子はきっと、このように在るのが聖者であり、その徳目を6つあげているんだろうか?

シン>>
ふふふ。そうだろうね。老子は理想を言っているからね。
しかし、老子自身、このような態度であったのだよ。
さておき、あえて、君はできるかな?と、問うているんだね。
実践するには大変だが、これが理想なんだ、としておけば良いよ。

ナオ>>
でも、一歩づつ踏み出して
無為自然へと到達したい!
生きるためには、何も指針がないとどこへ向かえば分からなくなる。
このような6つの教えがあれば、いつでも戻ってこられるね。
ところで、この中でも、最後にある「玄徳」というキーワードが気になるんだけど?

シン>>
万物を生かし育むが、所有しようとはしない。
行いをしても依存せず、長じても支配することはない。
これを「玄德」と呼ぶんだ。
老子は、人が行動を起こすとき、その行動の結果には執着することなく、自然な流れに任せることが大切だと説いているんだ。
「玄德」とは、深い徳を意味し、無為自然の態度を持ち、他者や万物を支配しようとしない精神の在り方なんだ。

すべては、玄徳とするタオから生まれ出るのであって、
私達は、自分の物なんて何一つ持ってはいない。
何一つ自分の物ではないという事実を、よく忘れてしまうんだよ。
厳密に、君の身体だって、タオから生じ先祖と父母の流れから頂いたものだ。
また、身体の組成は、このタオから生じ
すべて宇宙・天地の物質から出来上がっており
髪の毛1本でさえも、自分が無から発生させたわけではないんだ。
すべてが、天地からの頂きものだというわけだ、厳密な意味でね。
そんな私達が出会って、会話して、仲良くなったりケンカしたりする。
どうだい?これは奇跡としか言いようがない!
さておき、上記の6つの徳目をもった者が聖人と呼ばれるのだね。
老子はまさに、聖人だったよ。

ナオ>>
無為自然への方針を、より深く理解した気がする。
もっと老子の思想を知りたくなったよ。
シン、ありがとう。今日も有意義だった。

シン>>
こちらこそ、ありがとう。
老子は極めて抽象的だから、すべてに応用できる。
つまるところ底がない。
一生学ぶことができるんだよ。
それではまた!


おわりに


このシンとの対話で、気づいたのはシンが最後に語る
何一つ自分の物ではない。という一言。
現象世界といわれる、私達の生活基盤という経済・物質主義社会。
あたかも自分の物だという所有欲にまみれています。
しかし一歩引いた目線で見ると、すべては、私達の
所有するという便宜上のルールがあるだけで
自分の物というには、ちょっと違う気がします。
それらに命をかけたり、無理したりして手に入れたりというのも
なんだかおかしな感じがしてきますね。
究極をいえば、物質をもっていても死せば終わりです。
まぁ、ちょっと極端ですが、事実です。
そのようにみれば、ちょっと冷静になれる。
物質主義は虚であり、実は6つの徳目の無為自然。
そのほうが、きっと、のびのび楽しく生きられますよね。

お読みいただき、ありがとうございます。


いいなと思ったら応援しよう!